豪雪の山里から ~ 亡きオヤジの言葉を思い出す
こんにちは。ようこそ
オヤジが亡くなってもう15年程になります
昔の集団予防接種時の注射針使いまわしが原因でC型肝炎になり、最後は肝臓がんを患って70代後半で亡くなりました
注射針での感染さえなければ、もう少し長生きできた人だと思います
もともと仲良し親子でもなく
生きてる間はオヤジのことを想うなんてことは無かったのに
死んでからは何故だか事あるごとに
「オヤジならどう言うかな?」て考えることが増えました
脱サラして農業してる自分をどう見てるかな?とか
だいぶ親不孝な事もしたし、死に目にも会えなかった後悔の念からなのか?
分かりませんが、ただ何となく生前より気持ちの上で距離が近づいた気がしています
不思議なものです
オヤジは長年、岐阜県の高校の英語教員を勤め
自分の故郷でもある飛騨高山には40年以上住みました
だから、同年代だけでなく高校で教わったという若い世代にも顔が効きました
趣味は多彩で、登山、スキー、読書、絵画、ギター、リコーダー、フルート、詩、古文書の解読など
小学生の頃に家族で地元のスキー場に行き、ゲレンデ脇でシート広げてインスタントラーメンを食べたり、スキー場から裏道を滑って帰ったのが良い思い出です(スキー自体はそんなに好きじゃなかったけど)
とにかく忙しく動き回る人で、ボーっとしてることなんてなくて、常に何かをやってないと気が済まないようでした
人付き合いも盛んで、休みの日もいつも自転車で出かけていきました
そんなオヤジは自分が子供の頃から
小さな高山の街では有名人だったようで、自分には「〇〇先生の息子」という肩書がついてまわりました(兄貴はそれが気に入らなくてグレました)
そんな顔の広いオヤジが、他界した時には、故人の遺志にしたがって家族だけの葬儀にしたから、知り合いと言われる多くの人から
「どうして知らせてくれんかった。あ~はんちくたい(悔しい)!」
とさんざお叱りを受ける始末でした
それだけ色んな人から愛されていたのだと思います
そんな父から死ぬ前に病院で聞いたのは、
「自分はしょせんはよそ者、地元じゃないから」
という言葉でした(何があってそんな話になったか覚えていないけれど)
確かに高山は歴史と文化の街で古い風習とかも多く残っているから、他所から来た者には敷居が高い部分もあるでしょうが、自分からしたら、もう40年以上も住んでて、しかも誰よりもよく知られている人間なのに、今さら「よそ者」もないだろうと意外に思ったのを覚えています
でも、今の自分ならそんなオヤジの想いに少しは共感できるかもしれません
移住者として自分が魚沼の小さな山里に来てからの話ですが
ちょっとした揉め事の話し合いをする中で、移住25年くらいの先輩に対して地元出身の人が
「あんたはどこにでも行けるだろうけど、自分は地元を離れられん。ここで生きていくしかないんだ」
みたいなことを言ったのを聞いた時に、先のオヤジの言葉とリンクしました
移住者はいつまで経ってもよそ者で、地元民とは違うということ
まあ、この小さな集落で生まれた時から一緒に育って暮らしてきた人たちには(血縁もありますし)、他人が入り込めない強い繋がりがあることは否めないでしょう
だから閉鎖的とか差別されているとか阻害されているとか、そういうことではなく、単にベースが「違う」ということなんだろうと思います
普段いくら仲良くしてもらっていても、そんな意識は根っこの方にあるんだな、ということを覚えておいた方が良い気がしています
だからってどうということもないのですが、そういうものなんだと理解しています
ではでは