【完結】小説:狐030「狐」(1318文字)
「実は造形のアートスクールに入学しました。一昨日のことです。
何かきっかけがあったわけじゃないんです。ここでみんなの話を訊いていて、少しずつ自分が内的に動いていたんだと思います。自分でも自覚できないような速度で。気づかぬ程の力で。
もしきっかけがあったとすれば、それはもうずいぶん前のことですから」
「その遠足んときの、“なにものでもないもの”みたいな作品に出くわしたことだな」とスミさん。
「『何かであって何かでないもの』。作者は扇 榴弾。日本現代美術の巨匠」とマニさんがしっかり補足説明をする。
「それは分かった。で、結局氷を入れないのはどういうことだ?」
「氷って、冷やして薄めるために入れてましたよね」
「ああビールを、だろ」
「確かにそうなんですが、どうやらそれだけじゃないなって思うようになったんです。
たぶんこれって、私の中の熱みたいなものにも作用していたんですよ」
「ナリさんの中の芸術に対する情熱ってやつか。それを丸い氷が冷やして薄めてた?」
「そんな風に解釈してます。その熱を無いものとして扱っていた。自分で自分の想いにフタをしていた。でもそう簡単には消えないことに気づき始めたんですよ。消せないどころか、徐々に燃え方が激しくなってきているとも感じるんです。
それに、“ビールに浮いた球体の氷”。それ自体が『何かであって何かでないもの』にちょっと似てるんですよね。
これからは私があれを超える何かを創ろうと思います。
お金になるかどうか、とか、世間が評価するかとか、そんなことはもう本当にどうでもいいんです。
一生かけてでも『何かであって何かでないもの』のような作品を、いやそれを超えるものを創りたいんです!」
「ナリさんならきっと……」
と言いかけてスミさんの様子がおかしくなる。
「ハッ、ハッ…… ハックシャーーン!!」
よく世のおじさんがやる、“遠慮の無いデカすぎるくしゃみ”を披露した。
その勢いで丸テーブルの足を蹴り倒す。その上のレモンサワーが、宙を舞う。
スミさんが、バレーボールの回転レシーブの要領でグラスを地面すれすれで受け止めるも、中身が全て自分の頭や背中にぶちまけられる。
マスターが手際良く後片付けをする。
「ごめんなー。ナリさん」
「もう、スミさん何やってんの! せっかくナリさんがいい話ししてたのにぃ」とエロウさん。
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そんな感じで今日も『狐』は狐然としていた。私がそれなりの決断をしようが、それくらいでは『狐』は『狐』であることをやめたりしない。ずっとこのままこんな感じの『狐』であって欲しいし、私が望まずとも『狐』はきっと『狐』のままなのだろうと見えた。
『狐』に狐性なるものがあるのだとしたら、それがきっとここには充満していて、決して無くなることはなく、また、濃過ぎて困るようなものでもないあり方であり続ける。それが本当に良いことだと思えた。
帰りがけにマスターと目が合った。私の目を見てゆっくりと、しかし力強く、何度も何度も頷いていた。無言のまま。それは言葉以上に強いメッセージを含んでいたし、私は何があろうとここに通い続けるのだろうとも思い至った。
了