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金木犀 豊(きんもくせい ゆたか)のブログ〈かたちの羅針盤〉【創作】(約1500文字)

こんばんは、陶芸家兼フィクションライターの金木犀 豊(きんもくせい ゆたか)です。

先日、マフラーと間違えて真昆布を巻いて外出し、風邪をひいてしまいました。皆さんも体調には十分ご留意下さい。

さて、今日もアトリエ“青い黄土色の記憶畑”からお届けしています。


▼ 匿名の自由質問投稿サイト「フリスビー」

はい、今回はですね、匿名の自由質問投稿サイト「フリスビー」にね、色々なね、「ディスク」(質問)が投げ込まれているのでね、そのいくつかに回答していこうかなと思います。


▼ ディスク1「豊さんはよく動物を題材にした陶器あるいはテクストを生み出していますが、それはなぜですか?」

はい。ありがとうございます。
動物が好きだからです。嫌いなものよりも、好きなものを創り出したいですよね。そういうことです。動物が動くと楽しくなるんですよね。動物が存在しているとうれしくなるんです。



▼ ディスク2「豊さんは少し壊れたような、独特の文体を駆使しています。どうしてあのような書き方をしているのですか?」

ありがとうございます。
書き方ですか? うーん。どうしてなんだろう? 
ああいうのがあってもいいのではないか? という思いはありますね。

人にある固定的具体的な何かを伝えるのならば、あのような書き方はしないように思います。しかし、そうではないから、あのような書き方でしか言えないから、あのような書き方を採用しているのかな、と。

わたしたちは言葉を使っていますが、同時に言葉に使われているところがあるように思います。
なんというか、このコトバの枠組みから出たい、というのがどこかにある気がします。

わたしが主に詩と見なして世に送るテクストは、多かれ少なかれ、枠組みからの脱却を試みているのかもしれません。音楽の力を借りたり、動物の躍動の、その勢いを借りたり、あるいは、何か別の数学的な、幾何学的な、科学的な力を借りたりしながら、です。

しかしながら、それらもそれぞれの枠組みがありますからね。なかなか一筋縄ではいきませんし、だからこそこの取り組みは続くのだと思います。

「少し壊れたような」というのは、その枠組みへのアタックが、多かれ少なかれ、行われているからなのではないでしょうか。

*先日友人に「お前の書く詩は、抽象絵画だ」と言われたのを思い出しました。
まあそういうことなのかな、とも思い至ります



▼ ディスク3「どこか、音楽や踊りを彷彿とさせる陶器や文章を作られていると気づきます。その点について思うところはありませんか?」


ありがとうございます。
音楽と言えばテクノが好きなんですよね。踊り、ダンスミュージックにも親和性がある。
好きなことを創作する、これは自然なことですね。


完全にファミコン世代であり、あの露骨な電子音というか、無機質なサウンドが原点にあるんですよね、きっと。あれが血なんです、たぶん。
もちろん人並みにJ-POPも聴きます。歌メロも大好きです。

更に言いますと、以前音楽ユニットに、作詞担当として所属していたことがあります。演奏はしません。楽器はできませんしね。
歌われる言葉、歌になるのにふさわしい言葉ってなんだろう、というのを模索していた時期がありましたし、今も。
歌にならずとも、口にしてみて心地よい言葉と、そうではないものというのはあって、そこを気にしてテクスト化することもあったりはします。

*言葉は言葉に過ぎませんが、言葉とは違う何かになり得るのではないか、というのは日々思っています。土を焼き固めることによって、土が土ではない何かのカタチになるのと同様に、です。


あ、そろそろ焼き上がりの時刻です。ではまた。


私の活動を気にかけてくれるみなさま、どうもありがとうございます。

金木犀 豊


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ジブラルタル峻
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