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【小説】笠井 潔|屍たちの昏い宴 第15回
ジャーロ9月号(No.84)より、笠井 潔さんの連載をご紹介します。
(連載第1回は『ジャーロ2017年夏号(No.60)』に掲載しています)
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過去と現在の二つの狼人事件。
聞き込んだ情報から、事件の様相が徐々に明らかに……。
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第四章(承前)
外出の支度を終えてから受話器を取った。バルベス警部のデスクに通じる直通番号を廻したのだが、電話に出たのは年配のボーヌ刑事だった。
「外出中かしら、ジャン=ポールは」
「出かけるとは聞いてない、席は外しているが部内だろうね」
テメレール城館に行く前に確認しておかなければならないことがある。「それなら捜してもらえないかしら」
「ナディアさんはフランシュ・コンテのほうに旅行中だとか」ジャン=ポールが喋ったのだろう、パパは無駄口を叩かないから。「それなら電話があったことを警部に伝えて、こちらから掛け直そうか。で、滞在先の電話番号は」
外出の予定があるから、折り返しの電話を待つ時間の余裕はない。「いいえ。このまま待っているわ、急ぎの用件だから」
「わかったよ、捜してみよう」
そのとき客室のドアが叩かれた、同行の娘に違いない。ベッドの横から客室のドアまで小走りで行って開錠し、大急ぎで電話口に戻る。いったんテーブルに置いた受話器を耳に押し当てながら、戸口の娘に早口でいう。ミシェル=サルンの後ろには二人の子供もいるようだ。
「ごめんなさい、いま電話中なの。話が終わりしだい追いかけるから、あなたは先に車を出して」ホテルを出発する前に、どうしてもジャン=ポールに頼んでおきたいことがある。
「それならフロントのところで待ってるわ」
「待つのは十分まで、それでも下りていかないときは先に出かけてね」
綺麗な顔立ちで膚の浅黒い娘は、どこかしら不審そうな表情でドアを閉じた。五分ほど待ったろうか、ようやく受話器から聞き馴れた胴間声が響いた。
「おじさんだよ、レ・ルスにはもう着いたのかね」
「ええ、この季節にしては高速道がそれほど混んでいなかったから」一息ついて続ける。「ちょっと訊きたいことがあるんだけど、いいかしら」
「なんだね」
「〈カンボジア人権委員会〉とロータス社を創設した人との会談が、ジュラのリゾートホテルで開かれる予定だったの。その関係でわたしもレ・ルスまで来ているんだけど」
「会合に参加するモーリス・アデールと恋人のマドモワゼル・カッセルに声をかけられて、嬢ちゃんとカケルさんも同じホテルに泊まることにした。その話は聞いてるよ、あんたのパパから」
娘の旅行のことをモガール警視が部下に伝えたのは、捜査中の事件に関係する事実の共有のためだ。しかしバルベス警部が、その話をボーヌ刑事に話したのはお喋りにすぎない。わたしがカケルと二人で旅行することは、ジャン=ポールと刑事のあいだでは茶飲み話の種になる。
「パトリック・ドヌーは監視してるのね」コーン・メアス事件の容疑者としてバルベス警部が目をつけていた男だ。
「それがね」ジャン=ポールの渋面が目に浮かぶ。
「もしかして逃げられたの」
「どうしてわかるんだね」生まれたときからのつきあいだから、声の調子で当然わかる。
「中国人マフィアのチャオ・ハンジェとカンボジア大使館員のプム・サムヘンは」
「チャオは自宅に戻っていないし、サムヘンは大使館から出てこない」
サムヘンは民主カンプチアの在パリ大使館に籠もっているのではなく、監視の目を逃れてどこかに出かけているのではないか。今日の午後、このホテルのフロントにあらわれた東洋人はチャオ、あるいはサムヘンかもしれない。電話してきたフランス人がパトリック・ドヌーという可能性もある。
「今日の午後、正体のよくわからない東洋人がホテルにあらわれたらしいの」わたしたちが到着してからの事情を、かいつまんでジャン=ポールに説明する。
「なるほど。〈カンボジア人権委員会〉の一行は、東洋人の訪問者のことを知った直後に予定を変更し、会談相手の山荘に向かったというんだな」
「山荘じゃない、古い城館よ」
「城だって」受話器にバルベス警部の大声が響いた。
「もともとはシャルル・ル・テメレールがスイス攻略の足がかりとして、スイス国境に築いた砦のようだけど」シャトー・テメレールの来歴は省略して続ける。「その跡に建てられた一九世紀の城館を、アメリカ人のコンピュータ長者が買い取ったわけ」
「……犯人の真の標的は〈カンボジア人権委員会〉代表のコーン・メアスではなく副代表のハオ・ソッタだった可能性も否定はできん。今度こそソッタを始末しようと、暗殺者がレ・ルスのホテルに顔を見せたのかもしれないな」バルベス警部は飲み込みが早い。「しかし襲撃を計画している男が不用意に、ホテルの従業員に顔を晒すだろうか。その男は〈カンボジア人権委員会〉の関係者で、フロントに電話してきたフランス人らしい男のほうが襲撃者という可能性のほうが検討に値しそうだ」バルベス警部は依然として、カンボジア植民者の息子だったパトリック・ドヌーに執心している。
「ドヌーだけでなく、チャオ・ハンジェとプム・サムヘンの居場所も確認したほうがいいと思うけど」
「あんたにいわれなくてもそうするよ。レ・ルスで事態が急変したときは至急連絡するように。必要があれば現地の警察に協力を依頼するから」
「話は違うんだけど、できればジュラ県の憲兵隊から話を聞いてもらいたいの」
「なんだね」
「今年の三月三日、レ・ルスに近いボワ・ド・ルーの村で殺人事件が起きているんだけど、知りたいのは被害者の身許が判明したのかどうか。ボワ・ド・ルーというのは、問題のシャトー・テメレールがある村なんだけど」
「アレクサンドル・バトラーが買い取った城館のある村ってわけだ」
問われるままにボワ・ド・ルーの殺人事件のことを説明していく。ジャン=ポールに話を遮られたのは、屍体の状態について話しているときだった。
「被害者の喉笛には動物の牙で喰いちぎられたような傷痕が残っていた、それで間違いないね」
「そう、頸動脈からの大量出血が死因らしいわ」
「まさか狼に喰いつかれたわけじゃない、そんな傷痕が残る特殊な刃物が使われたわけだ。同じような事件が今年の一月にパリのサン・ラザール界隈でも起きている、同じ犯人の仕業とは思えんが」
「一月に……」
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