遠くまで行ってみないと、振り返ってもなにもないのでは?


エジソンが言ったかどうかの真偽や誤訳なのかはさておき、

「天才とは1%のひらめきと 99%の努力である」というフレーズがある。

これを例えば、理論と実践について考える際の補助線としてみる。

理論は目に見えない。それは言語によって論理的に思考した時に現れてくる、

不可視のコードであって、実態はないし、可視化するために言葉が代用されているといえる。つまり理論を発見するかしないかに関わらず、カオスとコスモスの入り乱れたこの世界に、人知れず存在している。それが見えないだけだ。

だから理論は発見するというより、発掘すると言い換えた方がより正確かもしれない。理論は発掘されたら、あとはそのコードに沿った仮説や結論を出し続ける他ない。だから、あとは計算しかないのだ。自然と仮説や結論は決定されていってしまう。

計算はコンピュータに任せておけばよい。これはつまり99パーセントの努力(作業)に他ならない。努力とはなんの能力も必要としない。ただやるだけなのだから。


ただ理論に沿って計算する作業。これは実践と同じような意味だ。

しかし、理論がなければ実践もしにくいだろう。目的地のないドライブ(目的や意味のない行為を好むのが人間だと付言しておこう)をするようなものだ。

これは何か、最短で目的を達成することを目指している場合には都合が悪い。

だから理論が必要になる。しかし、実践の説明書となる理論はどこにある?


理論はそこら中に存在する。例えば、哲学の話を参考にしてみる。

哲学には一般に大きく2種類のカテゴリーに分別することができ、

ひとつは西洋哲学という学問であり、もうひとつは「○○の哲学」と

慣例的に使われるような非学問的なものだ。すなわち、何かを哲学的に考える

際には、この2種類の哲学が一般的には混同されており、一口に哲学的な理論

と言っても、本来なら位相の異なる哲学が、同じ土俵で使われてしまう可能性があると言える。だから、この場合理論といっても様々な理論が並立、乱立してしまい、何を定理として実践すればいいのか分からなくなってしまうという問題がある。特に若者や新しい分野秩序に足を踏み入れようする者がよく直面するのだろう。これが「理論はそこら中に存在する」の意味である。


実践のお手本となる、理論はどこから発掘すればいいのだろう。理論の発見・発掘とは、言い換えれば「研究」や「調査」と言え、新しい環境の中で右往左往し模索(もがく、とも言える)することであり、成功や失敗の「実践」を積み、「こうしたらうまくいく(いかない)」というコードを見つけるということだ。だから理論の発見の前には、必ず実践が先んじるといえるだろう。

しかし現代は情報社会であり、検索の時代である。同じような境遇の人間の話を参考にしたり、または本などから役立つ情報を得るなどして、理論を発掘する方法が今の常識ではある。ただ検索をするのも実践といえるし、検索をしないことを実践する人もいる。その分水嶺は、検索行為に価値があるという理論をもつか否かである。もちろん、その理論を保有するか放棄するかを決定するのは、その理論が正しいか誤っているかを知るために、試しに「検索」を実践するしかない(中には、理論や仮説を知っていても面倒だという理由で実践すらしない者もいるが)。

いや理論が先か実践が先かは、鶏と卵問題に帰着してしまうので生産的ではない。重要なのは、理論と実践はふたつでひとつの概念であり、いずれを行使する場合でも互換を忘れてはいけないということだ(これもまたひとつの理論・理屈となる)。

話がずれた。元々は理論はそこら中に転がっていて、しかもそれらが対立してしまう状況が情報化社会の現代ではより顕著な現象となっていることを確認した上で、じゃあどんな理論を信じ、実践していけばいいのかという1つの解決策を提示することにある。そこで「天才とは1%のひらめきと 99%の努力である」というエジソンの言葉だとされるフレーズを逆に引用しなおしたい。99パーセントの努力は作業であり、実践とはその類型であるという話はした。注目すべきは1パーセントのひらめき、とは何であり、具体的にどうすればひらめくことができるのかという命題である。努力が実践を意味するのならば、ひらめきとは理論のことである。つまり、理論の発見をすることである。理論の発見と言ってもひとつの定理を発見するだけではなく、どんな理論を取捨選択し、さらにどう組み合わせるのかという応用問題でもあるというわけだ。それをひらめく必要があるのである。結果として、ひらめいた後には努力(作業・実践)しかないのだが(実践する難しさについてはのちのち書いた方がいい。実践するかしないか、という単純な話をするのではなく、もっとスケールを大きくして、結果的に実践してしまうという流れで説明しないといけない。それ程、人によっては厄介な問題であるからだ。)、大切なのは理論をひらめくための、その過程である。

実はひらめくことは誰にでもできることだ。その証拠に、どんな人でもその人自身の理論やルールというのは存在していて、そのルールはそれまでのその人の人生の中で取捨選択され、磨かれてきたものであると言えるからだ。

しかし、成功者と落伍者という区分けというものが一般的にはある(僕は一般的な勝ち組、負け組の仕分けに興味はない。その人が幸せならそれでいいからだ。他人の幸せの在り方に、他人である私がどうして文句をつけることができるだろうか)。そして成功するために、ふつうルートを設定する。そのルートを構築するものが「理論」となる。ひらめき、つまりこの理論がいい!と選択することは、自覚的か無自覚的かによらず誰しも実行しているものだ。

成功か落伍かを決めるのは、人間一人ひとりの成功・落伍の定義に委ねられる。定義するものが存在するものなのだ。成功と落伍の定義を各人がする必要があるのだが、その定義設定にも理論が必要となるだろう。すなわち、ここでもひらめきが重要になるのだ。

まとめると、「ひらめき」とは理論の発掘のことであり、しかし理論の「選択」のことなのだ。理論の「発掘と選択」。これこそが、実践を軌道にのせるために重要であり、また努力・作業・実践を水泡に帰すことを防ぐために重要な1パーセントの意義である。つまり、天才とは「99パーセントの努力をすることを厭わず、その努力を効率的に活かすための1パーセントのひらめきを怠らない者である」という定義ができる。僕はひらめきこそが非常に重要であると思う。努力は機械的な行為で、基礎的な行為である。最短、最速、正確性や効率性などは要求されるが、極論、誰でも「できるようにはなる」可能性がある。コンピュータに任せておけば済む、といったような楽観さみたいなものがそこにはある。方法論を教えればいい、という指針がある。

しかし、ひらめきは違う。ひらめき方を教えることはできない。それは個人のスタイルに大きく影響されるし、各人、テンでバラバラになる。それは俗っぽく言えば、感性に従って決定づけされるものなのではないだろうか。もっと具体的にいえば、「定義」という行為に対してどれだけしなやかな態度を備えることができるか、といえるのではないだろうか。定義するものだけが存在するのである。そして、どう定義するかは人によって異なる。それはその人の美学だったり、もっと感覚的な好き嫌いだったり、どんな趣味があって、どんな境遇であるのか。どんな偶然と出会って、どんな必然に辿りつけるのか。そういった次元なのである。これがインスピレーションなのだろうか。その人の人生の在り方そのものが、ひらめきの在り方を決定づけるひとつの大きな要素となる。アイロニーとユーモアの繰り返しの果て、エネルゲイア的なダンスの後に、振り返った時に「ある」ものと言える。方法論に回収されることはないし、してはならない。方法論がないことにこそ、ひらめきの価値がある。もし方法論に帰着してしまったら、しかもそれが唯一の方法だと決定してしまったら「ひらめき」はなくなってしまう。弱さ、矛盾を受け入れる器にこそ(つまり多様さを最終的には受け入れる強さや高次の矛盾と言えるかもしれないが)、1パーセントが宿るはずだ。なんか妙に文学的な表現になってしまったが、理論の発掘と選択を決める「ひらめき」について思いを書きたかったため、こんな回りくどい文章になってしまった。









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