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全部無理になって4連休を自製したら
何が嫌だったとかじゃないんです。
何か言われたとか、傷ついたとか、悲しいことがあったとかではなかった。
でも、とにかく全部が「無理」になったんです。
辛いとかではなかった。無理だった。
10月1日付で付与された有給が頭をよぎる。
わたしを救うのは、キミたちだ――
いま会社は繁忙期でも何でもなく、むしろ通勤が1番の労働とでも言えるほど暇。
じゃあわたしはつくるよ?連休を。
そうして、「“休む”を頑張る」ために生み出された4連休が始まったのです。
今回は、わたしの4日間での気づきをまとめました。おめでたいことに、色々気づいたのでご一読ください。
長いので1日1章読むと、あなたの暇、つぶせます。
【1日目】
「休息」が必要なのではない場合がある
冒頭で申し上げたとおり、事の発端は、わたしが「全部無理」になったこと。
ここ最近起きたビッグイベントはというと、会社で一気に人が辞めて、急にその皺寄せが自分に来たことでした。
入社以来、1秒たりとも仕事が好きだったことややりがいを感じたことがないわたしですが、それでも3年目。
人の入れ替わりの激しい会社で、入社以来たくさんの人を見送ってきました。
そのため、もはや他人の退職に感情が湧かないのですが、今回は自分にも影響がありました。
これまでの業務とまったく違う業務を担当することになったのです。
期間を置いて、などではなく、突然。その日の午後から。
自宅からドアドア2時間ほどのところに飛ばされて以来、「もう辞めよう」の日々でしたが、
もう流石に辞めよう、、、
とはいえ、引っ越して無駄に上げてしまった固定費をどうする?試験のことだってあるし、いまどうこうできる?でもいつまでこんな思いするの、、、
冒頭の「全部無理」の原因のほとんどは、たぶんこれ。脳がオーバーヒートしていたのかもしれません。
1日休んで体はめちゃくちゃ元気だけど、“そういうことじゃない感”がすごい。
「わたしがほしいのは心身の休息ではなく、具体的な解決策なんだ」
よくよく考えると、わたしは本当の悩みは誰にも相談しません。
その理由は、「人に相談しても解決しないしな……」と思っているからみたいです。
わたしの周りはやさしくて、おだやかで、すてきな女の子ばかりです。
わたしが辛そうなとき、みんな「頑張らなくていいんだよ」「無理しないで」と声をかけてくれます。
すごくうれしいし、大切な宝物だって思います。
でも、何というか、お育ちのよい心優しい前向きな子たちばかりなので、心はあたたかくなるけれど、正直解決はしない。
一時的に気持ちは和らぐかもしれないけど、依然問題が未解決のままならその和らいでいる時間すら無駄では、、、?と小さなわたしが言ってきます。
どうも、わたしが悩んでいるとき、他人に求めていることは「共感よりも具体的な解決策」らしいです。
そこだけ結構男性脳寄りなのかも。
(今回休んで、すきなことをする時間ができたとしても、今抱えている問題の根本的な解決にはならないんだよな〜、、、これ何の時間?)
となって、普通にストレスでした。
休むの頑張るって言ったのに。
でも、自分は解決したい欲の方が強いと気づけたことで、「共感を求める人の方が多い女の子から、自分が相談されたとき、無意識に解決策ばかり提案してしまっていないかな?」と反省する機会にもなりました。
自分共感もできます。やらせてください。
【2日目】
問題の本質から目を逸らさない
何とか“やり過ごす”。
そういうのも社会人の大切なスキルの一つだと思います。
とはいえ、この長い人生でずっと抱えている問題については、もう25歳にもなったらそろそろ何とかしないといけない気もするのです。
「住みたいところに住んで、ほしいものを買えて、何が不満なの?」
友人はわたしにそう言います。
たしかに物質面では、わたしの手札からすると十二分です。
10代のわたしがいまのわたしを見たら、泣くと思う。
でも何でこんなに満たされないんだろう?
いつも見上げるあのタワマンに住む自分を想像しても、そんなにしあわせって思えてなさそうだなって感じるのはなぜ?
SNSで見る同級生の人生に全部全部「いいなぁ」って思ってしまうのはなぜ?
わたしは自分の心が長年抱えている問題の本質に、きちんと向き合えていないのだと思います。
高年収の仕事、ジュエリー、ブランド物、都心の暮らし、、、
自分の望むような人生でないことを、そういうわかりやすいもので自分の気を紛らわせて、「これでいいんだ。わたしの人生はこれでよかったんだ」と言い聞かせているだけなのでは?と。
それで一時的にしあわせっぽくなります。
でもそうやって埋まらない心の穴を、応急処置的に物で埋めようとするのは、永遠にコストがかかります。
外から見たわたしと、わたしの内面の乖離が大きくなり、年々「そんなんじゃない」という気持ちは膨らむばかり。
物質的充足感で上を目指すと、特に東京はキリがありません。ずっとずっと「まだ足りない」。
それで頑張れるのはいつまでなんだろう。
わたしにはもう限界が見えてきています。
これについてはたくさん深掘りしたので、また別の記事で書きますね。巻物になっちゃうからね。
ある程度の年齢である程度の規模感の競争社会に身を置くべき
10代の無敵感って強かったな〜って思います。
わたしなんてとんでもなかったですよ。
当然ハリウッドスターになれると思っていたし、TED talksにも呼ばれて、ビバリーヒルズに住むんだと信じてやまなかった。
でもそれは今となっては、人口1万人の田舎で、ちょっと人のやらないことをやっていれば、“すごそうな感じ”になれていたからだったなと思います。
受賞歴とか学歴とかの実績は関係なかった。
そういう評価軸は自分のものじゃないと思っていました。
自分の可能性を信じられたから、乗り越えられた夜がいくつもあります。
でも、東京で大人をやっていると、そんなものより、何かを諦めた夜の方がほしかったと思います。
東京で、特に中受経験者や難関大学を目指した受験経験のある人たちは、みんなどこか冷めているなぁと思います。
生まれながらのやつだ……と思う人もいますが、努力の天才がほとんどで、心底尊敬します。
人格形成をするような多感な時期に、熾烈な競争社会に身を置いて、日々数値で評価され、成功も挫折も経験してきた人たち。
ものすごく“弁えている”と感じます。
正しい言葉が見つからないけど、海賊王になる!みたいなことは言わないし、向上心はあっても上昇志向はそれほどないように見える。
自分の所属する層をよく理解し、その中の最高を目指している感じがします。
「社会全体で見た現実的な自分の立ち位置」を客観的に理解する経験が、若い時期にあったらなぁと。
自分はこれは人より優っていて、これは自分がどんなに頑張っても得られないもの。
そうやって分別をつけていくイニシエーション的なものが、必要だったなと思います。
20代後半にもなって、無謀な夢なのか頑張れば届く夢なのかわからないものを、「なんか辛いな」と思いながら追いかけるのって、どうなんだろう、このままでいいのかなって思うんです。
たまに勘違いされて、反感を買うことがあるのですが、これはあくまでもわたしが、わたし自身の人生に対して適用しているものの見方です。
他の人の人生については知りません。
どんな人にも価値があるというのは大前提ある。
でも、実際に資本主義的な価値観で一般社会で評価されるものってあるじゃないですか。
たとえば学歴や容姿で評価されるのはおかしい!ということと、実際には今の社会にはそういう評価基準があるということは別の問題だと捉えています(前者はそりゃそうだよと思う)。
前者がおかしいのはおかしいんだけれども、とはいえ今この社会で評価されようと思ったら、たとえそれが気持ち悪くても、今ある評価基準に合わせていくしかない。
そういうのじゃないところで評価される人もいるけれど、ひと握りの鬼才系じゃないですか?
社会からの評価を気にしないという価値観ならいいけれど、そうでないならそういう世の評価基準から目を逸らしちゃいけないって自分に言い聞かせてるんです。
それでその中で自分がいける最高を目指す。
でもその最高ってどこだ?っていう。
社会におけるあなたのレベルはこれです!(ドドン)ってされたら死ぬ可能性ありますけどね。
自分のこと買い被っていられるからの幸福ってものもあるので。
、、、ほんまにこれ何の話?
「人生は辛いものである」という呪縛を解く
長い間、noteを通してわたしの成長を見守ってくださっている方はよくご存知かと思いますが、わたしって、なんかずっと大変そう(笑)じゃないですか。
人には人の地獄があるというけれど、わたしは幼少期から目に見えて地獄らしい地獄を生きてきた結果、どうも「苦労慣れ」「不幸慣れ」状態になっているようなんです。
1年を通して辛いのが当たり前。
これが辛いとか楽しいとか心地よいとかの識別もつかないようなときから、今で言うところの「しんどい」みたいな状態が普通になっているよう。
だから、いいのか悪いのか、「しんどい」の状態にわりと耐えられてしまうんです。
わたしは必要以上に人生は辛いものだし、頑張るものだし、いっぱい考えてのしあがるものだし、、、という人生観。
「現状にしあわせを感じたらダメ」なんです。これ以上上に行けなくなるから。もう頑張らなくなるから。これが自分の人生の適正ラインだと結論づけてはダメなんです。
これはもうほとんど自分にとって呪いだなと。
この強迫観念じみたものはどこから生じたのかしら。
もう何がしあわせかよくわからないのですが、しあわせっぽいときにも、ずっと「このしあわせとは……」みたいなこと考えている。
周りと話していると、心が健全に育った人たちはみんなそんなに考えていないっぽいんです。
全人類に聞いたわけではないけど、観測できた限りではわたしが「考えすぎ」。
こういうのって、自分の放つオーラに影響しちゃうんだろうなぁ。話さなくても、どことなく重苦しいものを放ってしまっているんだろうなぁと思うと、もう1回死んでやり直すしかないやん(笑)と。まぁもう生きちゃってるのでしょうがないよね。
作家になるわけでもないのに、そういう思考回路、もうええて。
わたしはもっとしあわせになっていいはずなんです。
いままでのことはいままでのことで。
わたしはもっと肩の荷を下ろしていい。
わたしはずっとどこの何と戦っているんだろう。
このあたりから、「わたしはもう自分の本心には気づいていて、答えも出ていて、これで大丈夫だと思える確証を探しているだけだな」と思い出しました。
【3日目】
人に相談できない人ほど友達(知人)を増やした方がいい
最近知り合ったすてきなお姉さまとご飯に。
見るからにお育ちのよさそうな、ふんわりまろやかなオーラからは想像つかないほど、個性的な経歴の持ち主。
しかも自分からベラベラ話すわけではないので、口を開くたびに(そんなネタを隠し持っていた、、、!?)となる。
聞き上手で話し上手という類稀なるタイプです。
そんな本でしか見たことないようなお姉さまの体験談を聞いていて気づいたのは、彼女の周りにいる人に多様性があるということ。
たまごが先かニワトリが先か、という話だけど。
普通にさみしいというのもあるけど、自分にとって「相談」が話を聞いてもらうことではなく、解決策を導き出すための「会議」に近いのなら、色々な道のプロとつながっておく必要がある。
プロというと仰々しいけど、色々な道への行き方を知っている人が身近にいると、こんなにいちいち悩まないんだろうなと。
(こんなことしたいな〜)(こういうとき、どうしたらいいんだろう)とふと思ったときに、気軽に話せる存在が必要だなぁと思いました。
考え事が悩み事に変わる前に話せる存在?
まぁ、できないんですけどね(大号泣)
【4日目】
諸悪の根源は労働
てか普通にそんな仕事は辞めたらいいやん(笑)
自分でつくる休みに意味がある
弊社は祝日がお休みではないので、世間のみなさんよりは3日以上の連休は少ないです。
だからとっても貴重な4日間でした。
与えられた連休ではなく、自製した連休に意味がありました。
結果としてあまり休んではいませんが、「わたしを労わるぞ!労うぞ!休むぞ!」と意気込んで過ごす連休では、ものの感じ方が違いました。
気の赴くままに思考の深掘りもできるし、なんだか景色は美しいし。
天気は絶対いい方がいいので、天気予報をチェックしてから有給申請してください。天気悪い日に暇になるとろくなことはありません。特に冬。
【4連休を自製したら】
30連休したくなった
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