不思議な縁のあった犬とわたしの20年の話
いまから一年前、愛犬のモカが息をひきとった。
20歳の誕生日を半年後に控えた、超高齢犬だった。
この記事は、ずっと下書きに眠っていたものだ。モカが死んで数日後に、カフェに座って書き始めたのだけど、途中から涙が止まらなくなって、そのままになっていた。
それをどうしていまになって掘り起こしてきたのかというと。
つい先日、ご近所さんの愛犬が息をひきとったのだ。
そのおうちには、もう1匹犬がいて、奥さんがいつも2匹を一緒に散歩させていた。その犬が死んでしまった翌日、1匹だけを連れて散歩している彼女と道で出くわした。彼女は歩きながら泣いていた。
わたしが声をかけると、「あの子がいないことに、まだ慣れないの」と言って、子どものようにぼろぼろと涙を流して泣いた。
わたしは、彼女の肩をそっと抱きしめながら、家族だったんだなあと思った。モカがわたしにとって家族だったように。
◇
いま考えたら、モカとは、不思議な縁があった。
約20年前、わたしは中国の北京に留学していた。
当時つきあっていたボーイフレンドが、一人暮らしがさみしいから犬を飼いたいと言い出した。勉強するためにここに来ているのに、犬なんて飼ってどうする。わたしは反対した。そんな暇があったら中国人と遊べ。
でも、いつか犬を飼いたいというのが彼の夢の一つだったらしく、どうしても飼いたい、買いに行くのについてきてほしいとしつこく懇願された。途中でわたしも折れてしまって、二人でブリーダーの情報を調べて電話をした。
行ってみると、路地裏の小さなアパートの一室だった。チワワを見せてほしいと伝えると、奥の部屋へ通された。
そこには、生後3か月のチワワが5、6匹いた。手のひらに乗るような、ちっちゃな子犬たちである。ケージから出してもらって自由になったおチビちゃんたちは、一斉に部屋のあちこちへ散らばった。
わたしたちは、兄弟の中でひときわ活発で、あっちへこっちへ走り回っていたオスの子犬にしようと決めた。元気なのはよいことだ。そう思った直後に、その子犬が勢い余って机の脚に頭をぶつけ、ふらふらとよろついた。
多分なんてことはなかったと思うが、その様子を目の当たりにして、わたしは彼と一瞬顔を見合わせた。そして、やっぱり違う子犬にしよう、とこそこそ話し合った。
そのとき、ソファに座っていたわたしの足元にトコトコやってきたのがモカだった。そっと抱き上げて膝の上に乗せると、両膝を合わせたくぼみに体を沈ませ、背を丸めてすやすやと眠り始めた。
自慢じゃないが、わたしは動物に好かれた試しがない。だから、この小さきものがわざわざわたしを選んでやってきたことに、ちょっと感動を覚えた。この出会いは、きっと特別なものに違いない、とすら思った。
わたしは、この子にしよう、と決定事項を告げるようにボーイフレンドに言った。
それが、モカとの長い付き合いの始まりだった。
白地に薄茶色の斑点があった子犬に、ボーイフレンドは、「モカ」という名前をつけた。どちらかというと、モカというよりはコーヒー牛乳を連想させる淡い色合いだったけれど、モカという音のころんと転がったような響きがかわいくて、あどけない子犬にぴったりの名前だと思った。
モカは、それから半年ほどボーイフレンドのアパートにいたが、その後、彼が仕事の都合で引っ越すことになったタイミングで、わたしが引き取った。やがて、わたしも仕事が決まり、一日中家を空けるようになってしまうので、日本の実家に引き取ってもらうことにした。
本当は違うところに引き取ってもらうことになっていたのだが、ちょうど北京に遊びにきた両親が、ぜひうちで引き取りたいと強く申し出てくれたのだ。
そこからモカの日本暮らしが始まった。
最初の一か月は、モカにとっては試練のときになった。急な環境の変化に戸惑ったのだろう。わたしの匂いをたどって家中を探し回ったり、食事をあまりとらなかったことを、電話するたびに母が教えてくれた。
そんな話を聞くたびに、小さくて健気なモカが恋しくなって、電話を切った後に一人泣いてしまったりした。
あれから、18年である。立派な大往生だ。これまで大きな病気を2度経験したけれど、そのたびに力強い生命力で回復してきた。あの小さな体のどこに、大病に打ち克つエネルギーを隠し持っていたのだろう。でも、やはり歳には勝てなかったのか。3度めの復活はならなかった。
モカの調子が悪いことは、母から聞いて知っていた。何度も電話やテキストでやりとりをして、様子はちょくちょく聞いていた。
ある日の朝、携帯に母からメッセージが届いた。モカの息があるうちに、声を聞かせてやって、という内容だった。
わたしはすぐに電話した。モカは、座布団を布団がわりに敷いてもらって、そこに横たわっていた。もう意識はなくて、息をしているのかどうかも、iPadの画面からはわからなかった。それくらい静かに動かずに横たわっていた。
「モカ、モカ、聞こえる?」
反応はなかった。でも聞こえてるかもしれない。聞こえていてほしいと思った。
この数日、父と母は、夜の間交代で起きていて、モカのトイレの世話をしたり、ちゃんと息があるかを確かめたりしていたらしい。夜中、みんなが眠っている間に、一人で逝かせるのはかわいそうだから、と言って。
モカの命の火が、もうすぐ尽きようとしている。空気の中に、死の気配が溶け込んでいた。
母が最近の様子をぽつりぽつりと話すのを、うんうんと聞いていた。すると、突然、母が「あっ」と短い声を上げて、画面から姿を消した。すぐそばにいた父もモカに駆け寄ったらしいことがわかった。わたしにはなにが起こったのか一瞬わからなかった。
それが、モカの最期のときだった。命が尽きる前の痙攣が起きて、その後、全身からすうっと力が抜けていった。
モカが死んじゃった。
わたしは泣いた。父と母も鼻をぐすぐすいわせながら泣いた。いままでありがとう、ありがとう、と何度も言いながら。
この最期の瞬間が、わたしと電波で繋がっているときに訪れたことの不思議を思った。地球の反対側にいたわたしが、モカの最期を一緒に看取ることができたなんて、もう奇跡に近い。
「モカは、最後にもう一度あなたの声を聞くまで待っていたのかもね」
母が鼻声で言った。
そうだったのかな。誰にもわからない。わからないけれど、わたしとモカの間には、確かに特別な巡り合わせがあったんだと思わずにはいられなかった。
読んでくださってありがとうございます。
いつかちゃんと書き終えたいと思っていたので、今日それが果たせて本望です。
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