【映画感想文】なんてことない日常の価値を思い知らされる瞬間がある―『雪山の絆』
最近、子どもたちが寝静まった後は、夜な夜な夫と二人で映画観賞会をしている。
昨晩は、Netflixで配信中の『Society of the Snow(邦題:雪山の絆)』を観た。
(以下、ネタバレあり)
ウルグアイのラグビーチームを乗せたチャーター機が、アンデス山脈の奥深くで墜落する。生存者たちは、実に2か月もの間、雪山の過酷な環境に閉じこめられる。寒さと飢えだけで、身体的にも精神的にも、極限の状況まで追いやられる。
でも、それだけではない。雪嵐、雪崩。人間の力ではどうにもならない巨大な力がいつもすぐそこにある。そして、なにかの気まぐれのように突然押し寄せてきて、あっけなく命を奪っていく。
ぎりぎりのところで生き延びて、命をつないでいく日々。捜索隊が見つけてくれるという希望はなんども裏切られ、心は弱り、病んでいく。そして、目の前で、親しき者が一人、また一人と死んでいく。
観ているわたしまで、気が狂いそうになる。空気が薄くなって、呼吸が浅くなる。ときどき、意識して深呼吸をした。わたしも自分を落ち着かせる必要があった。
壮絶。観る者の胸をこうも苦しくさせるのは、これが実話を基にしているせいでもある。
この映画の中で、妙に心に残ったシーンが2つある。
一つは、飛行機の墜落から1か月以上が経ったころ。少しずつ季節が移ろい、雪解けが始まる。ある晴れた日に、トンビであろうか、一羽の鳥が上空を飛来する。きっとほかには風の音しか聞こえない、いや風の音すらなかったかもしれない。雪と山と空だけの景色の中で、その鳥の声が響く。
飛行機の残骸で作ったシェルターに背をもたれかけ、黙ってそれを見上げていた青年の一人が、鳥の声に似せて口笛を吹いた。それに続いて、別の誰かが、頬を膨らませ、丸めた手のひらに息を吹きかけてまた違う鳥の声のような音を出す。何人かがまたそれに続く。
それが、みんなうまいのだ。緊張ではりめぐらされていた時間が、一瞬ふっと緩む。チームメイトたちは、互いの顔を見て、ははっと笑い合った。
もう一つは、最後のクライマックスに向かう一幕。捜索隊を待っていては生きて帰ることができないと悟った青年・ナンドは、目の前に聳え立つ雪に覆われた頂を歩いて越え、救助を求めにいくことを決心する。墜落から60日が経過していた。
この山を越えれば、チリにたどり着くに違いないと信じて何日もかけて、雪深い山を一歩ずつ登っていく。
登山家が入念に準備して挑む雪山登山とはわけが違う。なにせ、ギアなんてなにもないのだから。あり合わせの材料をつなぎ合わせて作ったサングラス、防水素材を縫い合わせただけの寝袋、そしてわずかな食料。コンディションなんて最悪だ。もう2か月も飢えと闘い続け、体はやせ細っている。
そうして山の尾根までたどりついたとき、ナンドが目にしたものはなんだったのか。
それは、チリへの脱出ルートには見えなかった。この山を越えれば、緑の谷があり、遠くには海が見えるかもしれないと信じたそこにあったのは、永遠に続くとすら思われる山脈だった。
ナンドはそこに座り込んで、その光景を一心に見つめていた。少し遅れて登ってきたロベルトは、その景色の前に茫然とする。嘘だろ。希望は打ち砕かれた。
そのとき、ナンドはこう言ったのだ。
”It's so beautiful.”
確かにそれは息をのむような壮大な景色だった。でも、この状況で、木っ端みじんにされた希望がさらさらの砂になって風に飛ばされそうな状況で、そんなこと言える?
結果として、ナンドとロベルトは、その山脈の谷間を何日も伝い歩き、ついに人里までたどり着く。そして、救助隊をつれて、仲間たちを救出することにつながったのである。
この2つのシーンに引っかかりを感じたのは、最近読んだ本の一説と関係している。
『夜と霧』という本をご存じだろうか。わたしはまだ読んだことがないのだけれど、最近読んだ本の中で、この本が紹介されていた。
この『夜と霧』の中で、アウシュビッツという過酷な状況下で生き延びたのはどんな人だったのかという考察がある。
それは、「強い信仰を持った人、強い意志の力を持った人、最後まで希望を捨てなかった人、思想的に深い信念を持った人」に限らなかったという。
どんな人が生き残ったかというと。
例えば、強制労働で死人を埋める穴を掘っているとき。日が暮れて、栄養失調の体が凍える中、林の向こうに沈む真っ赤な夕日が見える。そんなときに、「おーい、見ろよ、なんてすばらしい夕日じゃないか」などと言う人。
あるいは、水たまりを越えていくとき。水に映った木の枝や風景が、まるでレンブラントの絵のようだといって、水たまりをのぞきこむような人。
または、夜中に狭いところで重なり合うように眠るとき。体のエネルギーを少しでも無駄にしないように、寝がえりすらうたない。そんなときに、ふと遠くから、かすかにアコーディオンの音が聴こえる。昔ウィーンで流行ったあの曲じゃないかといって、壁に耳を押しつけ、その音楽に聞きほれるような人。
そんな人たちが生き延びたというのだ。
わたしが挙げた映画の中の2つのシーンが、事実に忠実に描かれているのかはわからない。ストーリーとしての創作が入っているかもしれない。
でも、『夜と霧』の一説を思い出して、そうか、そういうことは確かにあるかもしれない、と思った。
柔らかく沈むソファに座って、映画を観る夜。隣には夫がいる。子どもたちは、なんの心配もなくベッドで眠っている。凍えることなく、飢えることもなく、わたしたちは生きている。
こんななんてことない日常の価値を、これでもかというほど胸に突きつけられた夜だった。
最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
息が詰まりっぱなしの映画でしたが、大きなテーマに心が揺さぶられることは確かです。
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