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【孤読、すなわち孤高の読書】セーレン・キェルケゴール『死に至る病』
絶望をした人間が神への旅路を描いた哲学的黙示録。
[読後の印象]
私がこの書に出会ったのは、20代前半だった。
ショーペンハウアーのペシミズム、ニーチェのニヒリズムを巡る生の哲学の系譜の中で、セーレン・キェルケゴールは出会い頭だった。
そもそも、書店で見かけた『死に至る病』というタイトル自体に、私は怖気づきながらも奇怪な興味が刺激され、その書を購入したのだ。
当時、私はキリスト教および内村鑑三の思想理解を深めるために、プロテスタント教会に通っては牧師に質問を投げかけ、聖書を読んでは様々な疑問と矛盾に苛まれる日々の中で、ショーペンハウアーのペシミズム、ニーチェのニヒリズムを巡る生の哲学の系譜の中で漂流し、セーレン・キェルケゴールの絶望に辿り着いた。
当時の私の精神状況で言えば、キェルケゴールは“形而上学的不時着”という表現になろうか?
当時の心境として、そこがゴールではないもののいったん思考的闘争を停止させ、キェルケゴールというデンマークの異才で小休止しようという試み、と言って良いのかもしれない。
当時のキリスト教の在り方、大哲学者ヘーゲルの歴史観、さらには父親や恋人であり婚約者との関係性は、デンマークにキェルケゴールという哲学的異才を生み出し、彼の生涯に多大なる影響を与えたが、ここでそれを語り出すと非常に長くなってしまうため割愛する。
死に至る病の正体
彼は人間の魂に巣食う不可解な病理、「死に至る病」と名づけた。
この死は、単なる肉体の滅びではない。
それは精神の頽廃、自己の喪失、すなわち人間存在そのものの崩壊を意味する。
キェルケゴールの筆は冷徹かつ精緻に、人間の「絶望」という闇を剔抉し、その本質を暴いていく。
絶望の定義
絶望とは何か。
それは人間が「自己」であることの宿命と向き合う際に生じる、苦渋と苛烈の産物である。
人間の自己とは、「有限」と「無限」、「必要」と「可能」の狭間に揺れる綱渡りの存在である。
この二重性が均衡を失うとき、自己はその本質を見失い、絶望へと堕ちる。
たとえば、有限性に埋没する者は目先の現実に絡め取られ、無限性に溺れる者は果てなき幻想の中で空虚に迷走する。
そのどちらもが、真の自己への冒涜であり、自己を裂く痛みとなる。
三つの絶望
キェルケゴールは、この絶望を三つの形態に分類する。
そのどれもが人間の魂の綾を織りなす一幕であり、各々が悲劇を宿している。
自己を意識しない絶望
最も浅き絶望。
それは、自己が自己たる存在を意識しない盲目的な状態である。
彼らは日常の虚栄、物質の豊穣に安住しながらも、その実、魂の空洞を自覚することなく生きる。
自己になりたくない絶望
この絶望は、現実という茨に傷つき、理想の自己を手に入れられぬ無力の呻きである。
自己の不完全さに苛まれつつも、受け入れる勇気を持たず、魂の内奥で否定を繰り返す。
自己になりたい絶望
最も深き絶望。
それは、自らの力のみで理想の自己に成ろうとする傲慢から生じる。
人間は神を拒絶し、自らの手で全てを支配しようと試みるが、その努力は必然的に崩れ、より深い奈落へと沈む。
救済の道
では、この病をいかに克服するのか。
その答えは、「神との関係」に存する。
キェルケゴールは、人間がその限界を受け入れ、神の前に謙虚に立つとき、初めて絶望から解放されると説く。
信仰とは、人間が自己の無力を認め、神の手に自らを委ねる行為である。
それによって、人間は真の自己を発見し、霧のような絶望を払うのである。
この道は厳しい。
だが、魂の純粋さを希求する者にとって、それは唯一の救済である。
現代への警鐘
『死に至る病』は単なる過去の哲学書ではない。
現代社会においてもこの病は形を変え、我々の生に影を落としている。
自己喪失とアイデンティティの危機に苛まれる時代にあって、この書物は「人間とは何か」「絶望にどう立ち向かうか」という問いを突きつける。
そしてその答えを、キリスト教的文脈を超えて普遍的な示唆として提供する。
キェルケゴールが剔抉した絶望の姿は、冷酷にして美しい。
そしてその克服の道筋は、苛烈ながらも崇高である。
我々が真に自己を知るためには、この「死に至る病」の暗闇を見据えなければならない。
人間存在の真実を語るこの書物は、今なお我々の魂を揺さぶり続ける。
“三大生の哲学者”の方向性と思考比較
ここでショーペンハウアー、ニーチェ、そしてキェルケゴール——それぞれが生という深遠なる謎に挑み、その答えを独自の地平に刻んだ巨人たちの三大生の哲学の方向性と思考をあらためて比較することを試みたい。
その探求の軌跡は同じものではなく、彼らの哲学は全く異なる光彩を放つ。
以下に、その違いを明瞭に描き出そう。
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世界観と人生観
ショーペンハウアー
ショーペンハウアーは、生というものを「苦しみの連続」として捉えた。
その根源を、盲目的で制御不能な“意志”に見出した彼は、存在そのものに悲劇を見出し、そこから解脱する道を探った。
欲望を抑制し、芸術や禁欲を通じて苦悩を乗り越える——その静謐な美学には、仏教的とも言える諦観の響きがある。
ニーチェ
ニーチェは、このようなペシミズムに対して鋭利な剣を振るい、生命を否定するどころか、それを高らかに肯定した。
「力への意志」を生命の本質と位置づけ、苦しみすらも創造の源泉と見なすその哲学は、まさに闘争と超越の賛歌である。
神なき世界で人間が価値を創造し、「超人」へと自己を超克する道筋を提示した彼の思想は、燃え盛る野火の如き力強さを湛えている。
キェルケゴール
一方、キェルケゴールは、生の苦悩を“絶望”として凝視し、その先に神との出会いを見出した。
彼にとって、人間が真の自己を発見する契機は、この絶望の闇に沈む瞬間である。
その闇を通じて神の光に至る——彼の哲学は極めて神学的であり、内面的な救済の物語を描いている。
苦しみの捉え方
ショーペンハウアー
彼にとって、苦しみとは生の不可避の宿命である。
それは意志の表出として人間を縛る枷であり、そこから逃れるためには禁欲や瞑想、芸術の直観を通じた一種の超越が必要とされる。
ニーチェ
ニーチェにとって苦しみは、ただ避けるべきものではない。
それは生を強化し、価値を創造する燃料であり、運命を肯定する「アモール・ファティ(運命愛)」の精神において積極的に引き受けられるべきものである。
彼の哲学は、戦士が傷を勲章とするような壮絶な肯定感に満ちている。
キェルケゴール
キェルケゴールにとって、苦しみは神への道を照らす灯火である。
絶望の中で人間は自己を直視し、その無力さを悟る。
それこそが信仰への門戸であり、彼の苦しみの捉え方は宗教的な贖罪の物語と深く結びついている。
超越の方向性
ショーペンハウアー
彼の超越は、意志の否定による静的な解脱へと向かう。
それは人間の欲望を捨て去り、無欲の境地に至る一種の否定的な悟りである。
ニーチェ
これに対してニーチェの超越は、破壊と創造のダイナミズムに満ちている。
伝統的価値観を粉砕し、新たな価値を創り上げること——その先に「超人」の理想がある。
彼の哲学は、炎の中で鍛えられる剣の如き力強さを感じさせる。
キェルケゴール
キェルケゴールの超越は、神への信仰による救済を指向する。
絶望の底から神に向かって跳躍するその姿勢は、哲学というより祈りに近い荘厳さを湛えている。
神の役割
ショーペンハウアー
彼の哲学において神は登場しない。
宇宙の根源を説明するにあたり、神という存在を必要としなかった彼の視座は、無神論的で徹底して合理的である。
ニーチェ
「神は死んだ」と宣告したニーチェは、神の存在そのものを拒絶し、伝統的宗教の枠組みを破壊した。
彼にとって重要なのは、神なき世界で人間がいかにして新たな価値を創造するかである。
キェルケゴール
一方でキェルケゴールにおいて神はすべてである。
人間が真の自己を発見し、救済に至るためには、神との直接的な関係が不可欠だとされる。
彼の哲学は徹底して神学的であり、その中心には信仰が据えられている。
人間の可能性
ショーペンハウアー
人間の可能性とは、意志を克服し、苦しみから解脱することにある。
それは一種の静的な境地への到達であり、消極的な悟りを目指す道である。
ニーチェ
人間の可能性は、自らの力で価値を創造し、自己を超越することにある。
「超人」として新たな地平を切り拓くその姿勢は、積極的な生命肯定の極致である。
キェルケゴール
人間の可能性は、神の前に立つことで真の自己を生きることにある。
信仰によって自己を完成させる——その可能性は、宗教的救済の次元に開かれている。
ショーペンハウアーは苦しみからの解脱を求め、ニーチェは生の苦しみを力として肯定し、キェルケゴールはその苦しみを信仰によって超克する道を示した。
それぞれの哲学は、人間存在の深淵を凝視しつつ、全く異なる地平を指し示している。
これら三者の思想は、まさに生という名の劇場における三つの幕——悲嘆、闘争、そして祈り——として読むに値するのである。
つい長い文章になってしまい、キェルケゴールの人生を紹介できなかったが、彼の短い人生はまるで絶望を直視し続け、絶望を通じて、不可視の絶対者への問いが満ち満ちている。