【人生最期の食事を求めて】淀屋橋で遭遇した大衆酒場の侮れぬ刺客。
2023年11月21日(火)
ほし寅淀屋橋店(大阪府大阪市中央区平野町)
狭いホテルであろうと小さなデスクであろうと、Wi-Fiさえあれば仕事をこなすことができる。そんな時代だ。
だが、仕事を追っているつもりが気がつけば仕事に追われるという現状は、公私を分ける場所や時間の独立性を拒絶するとしても、遠い昔からそんな時代への静かな熱望を抱いていたことを確信的に自覚している。
時の推移を自覚できていないのは遮光性の強いカーテンのせいだろう。
カーテンの隙間から外を見ると初冬の闇に覆われていた。
20時に迫ろうとしていた。
土佐堀川にビル群に連なる窓の灯りが投影する土佐堀川の河畔を沿って歩いた。
ビジネス街もこの時間ともなると人の気配は薄れ、落ち着いた佇まいを呈していた。
梅田方向に向かうことは避けている自分に気づいた。
それは何故かわからないけれど、まだまだ見知らぬ街角を散策したいという意図が心の片隅に散逸していたかもしれない。
御堂筋方向へ歩き進んだ。
過剰までのイルミネーションと地元プロ野球の優勝パレードを告げる看板が街の其処彼処を華やかに染め、若い男女の背中に彩りを染めている。
船場近くまで歩くとさすがに空腹を覚えた。
しかも心斎橋は目前にまで迫り、街は俄にざわめきを宿し始めていた。
私はあえて引き返すことにした。
それは私にとって賢明な判断かどうか知る由もない。
ただ言えることは、小ぶりで静かで落ち着きのある店で満たされるということに尽きるのかもしれない。
焼鳥、和食、焼肉のこじんまりとした店を見つけた。
ところが、どの店もほとんどが満席のようで、しかもどことなく騒がしい。
別段焦燥感に駆られてはいないが、なにせ空腹が諦めることを拒否している。
雑居ビルばかりが蠢く中に、肉豆腐やおでんといった文字が緩やかに踊っている白い暖簾が目に入った。
私はその前を一瞬通り過ぎたものの、店内を確認するように引き返してみるほぼ無人のようだった。
『ダメだったらすぐに出よう』
私は自分に言い聞かせるように店に入った。
ちょうど一人の客が会計を済ませていた。
店の奥の壁には大型テレビモニターから繰り出される雑音が届いた。
それを避けるべく私はカウンター席の中央を陣取った。QRコードからの注文システムで、
ビールとキムチをつまみながら、「ほし寅の唐揚げ4個」(880円)と「牛ホルモン焼き」(780円)で様子を窺うことにした。
眼前に広がる厨房には、東南アジア系の若い男女と日本人のスタッフが立っていた。
注文が確認されるとさっそく調理が始まった。
その手付きは慎重ながらも丁寧で、完成後に運んできた女性スタッフの微笑は、日本人のそれよりもどこか愛情深い輝きを発しているように思えた。
唐揚げを啄んでみた。
鶏肉から迸る肉汁と柔和な衣が相まって私の口内を熱く満たした。
そこに音を立てて「牛ホルモン焼き」(780円)が追随してきた。
鉄板の上で踊る肉の躍動と甘い香りが新たな食欲を刺激する。
『こんなはずじゃなかったはずだ』
と私は自分に問うた。
この2品だけで興奮することは抑えておこう。
ハイボールを追加して「ハムカツ」(280円)を選んだ。
よく見かけるものと異なる拳大ほどのそれは、凝縮された肉のまさに結晶のような姿を露見している。
たちまちにしてハイボールがなくなる頃、フレンチおでんという項目に目が止まった。
「トマトバジルソース」(320円)と「ロールキャベツ」(320円)を追加することにした。
それは、確信を持って美味であることを知らしめた。
最後に選んだのは「納豆デミグラスソース」(580円)だった。
次々と繰り出される料理は、どれも丁寧で美しく仕上がり、何よりも味の調和も申し分なかった。
私は、ひたすらそれぞれの料理に満たされていくまでだった。
ただ言えることは、外観や大衆酒場という相貌への身勝手な先入観によって店を判断してはならないと思う一方で、外観や店内POPのデザインひとつを取っても相応のブランディングの重要性を再認識したことだ。
私の腹部にはもう余裕がなかった。
ハイボールを飲み干し会計へと進んだ。
東南アジアのスタッフの溢れ出る微笑にアルコールとは異なる心地よさを感じた。
店の前を自転車で通り過ぎる人々は、一様に真冬を思わせるようなダウンジャケットを着ている。
11月下旬ともなれば寒くなくても着るのが流儀のようだ。
生温かった微風も微かに冷たく感じるものの、少し酔った体には爽快だった。
ホテルに戻る途中の肥後橋で川を見つめた。
薄汚れた川面も夜ともなるとその姿を闇が覆い、月や外灯の光が朧に映じていた。
私はそのまま橋の欄干に立ち尽くし、月光が映える川面にしばらく見入ることにした……