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【人生最期の食事を求めて】空腹の限界突破がもたらす蕎麦の至福。

2024年9月10日(火)
正直庵(北海道札幌市南区)

明治時代の自然主義作家、島崎藤村の代表作『夜明け前』は、「木曽路はすべて山の中にある」という書き出しから始まる。
それに比すれば、札幌は約6割が森に囲まれている。
四季の移ろいは明確で、人口約200万人が暮らす街は世界でも稀であろう。
最近はヒグマの出没が頻繁に報道されるが、だとしてもこの大自然を間近にして暮らすというダイナミズムは、ここでしか得ることのできない価値を育んでいる。

島崎藤村(1872〜1943)

その中でも南区は、ほぼ森の中と言っても過言ではない。
大都市の喧騒が嘘のように消え失せ、見渡す限り山の中に囲まれた、まさに『夜明け前』の世界である。

久方ぶりに訪れ、あらためて山並みを眺めた。
36度超えを連発した昨年ほどの暑さはなかったものの、北海道らしさを欠いた湿度の高い日が続いたが、ここに来て急に夏が急ぎ足で去り、突如として秋が訪れたといった風情で、山々を包む木叢もどこか深緑を脱ぎ去って、仄かに黄色味の帯びた衣装を纏い始めているように見えた。

ずっと空腹だった。
ラーメンやカレーを絶ち、ひとりで飲むことも絶ち、気がつけばヨガに没頭する俳優兼お笑いタレントと変わらぬ食生活になっていた。
しかしながら、その空腹はなんと心地よいことであろう。
密教の即身成仏といえば、真言宗の開祖者である弘法大師空海を思い出すが、空腹がもたらす限界突破の快楽はその神秘性をいっそう高めるようだった。

ルネ・デカルトの「我思うゆえに我あり」から始まる大陸合理論、身体と精神を分割して考える心身二元論は西洋哲学の近代化に寄与したが、空海が広げた密教や道元がもたらした禅に比すれば、随分とご都合主義のロジックにすぎないことは、神を基準で思考したキリスト教的世界観の西洋哲学の系譜を辿れば明らかである。

ルネ・デカルト(1596〜1650)

西洋哲学的に言えば、私は空腹を感じた。
しかし、感じたのは私の認識であり、決して本能ではない。
ただそこには空腹がある、ということだけである。
が、本能から空腹を掻き立てられたのは、南区の蕎麦の有名店に辿り着いたからである。

正直庵

11時を過ぎたばかりということもあり、店の中はまだ空席が目立っていた。
広々とした店内はテーブル席と座敷席に分かれ、この自然豊かなエリアにふさわしく伸びやかな雰囲気を醸していた。
すでに2・3組の客が蕎麦を啜っているが、場所的にも時間的にも会社員の姿はあろうはずもなく、年配の夫婦がこれから定山渓温泉に向かうついでに蕎麦でも食するといった流れだろうか?

すぐさま「鴨せいろ」(1,800円)を注文した。
過去にも何度か来たことがあるが、私にとって札幌の蕎麦店の中では屈指の存在と言えた。
なるほど創業1987年ということもあり、札幌郊外にあっても客は途切れることを知らない。
だからこそ期待値は高まるばかりで、水を口にふくむ度毎に私の空腹という本能は無造作に動揺しながら、喉から食道、そして胃に吸い込まれる水さえも鷲掴みにする気概に満ちていた。

長く待ったような気がした。
「お待たせしました」
物腰の柔らかい女性スタッフがお盆を持って向かってきた。
オーソドックスな鴨せいろの姿が現れた。

鴨せいろ(1,800円)

自家製粉の蕎麦粉を石臼で挽き、すべての工程を手打ちで作られた麺は箸で掬いやすい疎ら感を呈していて、持ち上げると蕎麦自体の香りが鼻元を通り過ぎていった。
その風味が尚更空腹を刺激し、そればかりか過激化するばかりで、鴨の香りが横たわるタレにつけて啜った。
濃厚過ぎないタレと蕎麦の絶妙な風味と歯ごたえが駆け抜けたかと思うと、私の中で眠っていた空腹は揺り動かされ、まさしく全身に染み入るように体内全体を覆ってゆく。
全くと言っていいほど臭みのない鴨肉の程良い肉感は、空腹を脱皮した貪欲が咀嚼を促して鴨肉の真髄に眠る旨味すらも追い求めた。
私はかろうじて空腹を脱ぎ捨てた食欲の暴走を抑えようと、ネギを噛み締め始めた。
それが功を奏し、落ち着きを取り戻して蕎麦を啜ってはゆっくりと、そしてじっくりと味わい続けた。

といっても、美味のひとときは束の間である。
追って運ばれてきた蕎麦湯をタレに注ぎ込んだ。
褐色と白濁の混じり合う様を見下ろしながら、私は再び修行僧が山に入るような気分に浸りながら、窓辺の森を眺め続けるのだった。……


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