沖縄野菜クラブ 4 ありがとう運動
今回の野菜クラブの活動では、大きく分けると4つの作業を行った。
1、カタツムリ対策(カタツムリを畑から6m以上離れたところに移す。ネットをかける。など。)
2、ズッキーニを植える(新たに畝を作るところから始めた。)
3、雑草を刈って敷き藁に加える
4、水をやる
今回も総勢約20名が参加し、それぞれが手分けしてこれらの作業を行った。
どの作業においても、メンバー同士が大事にしようと呼びかけていることがある。
「ありがとう。」と言いながら行うということだ。
苗を植えながら、「ありがとう。」
水をやりながら、「ありがとう。」
天高く、カタツムリを放り投げながら、「ありがとう!」
そういった想いは苗や土地に伝わり、より良い野菜ができる。らしい。
私も、このありがとう運動には賛成だった。
どこか外国の研究で、優しい言葉をかけた植物のほうが悪口を浴びせたものよりもよく育った、なんていう話を聞いたことがある気がする。
また、何かを「有り難い」ものだと感じられる心が幸せへと直結しているというのは、原始仏教発足以来2500年余に及ぶ人間の真理である。
私も言ってみた。
じょうろでネギに水をやりながら。
「ありがとう。」
しかし、なぜだろう。
なんだかモヤッとしてしまった。
私は何をありがたいと思っているのか...?
今、私がありがとうと呼びかけている対象はネギである。
ただ、このネギはいつか私に食べられる。
しかし、おそらく、そのために育てられているということを彼らは知らない。
このネギは、私に食べられることを良しとしているのだろうか?
もし仮に、このネギが私に食べられたくないと思っていたらどうだろうか。
純粋に子孫を残そうと育っているとしたら、私が彼らにありがとうと言うのは、お門違いな気がする。
「あなたに食べられ、感謝されるために生きているわけじゃない。」
そう言われれば、ぐうの音も出ない。
その場合、私が言わなければいけない言葉は「ごめんなさい」である。
手向けるべきは、心からの謝罪だ。
ごめんなさい。あなたの命を、いただきます。
私はあなたを育てます。それはあなたを食べるため。
子孫のために伸びたその体、刈り取り、摘み取り、切り刻む。
そうして私は、明日を作る。
私のための、明日を作る。
私が大事な何かのために、あなたの大事な体を食べる...。
作物を食べるために植え、育てるという行為は、考えれば考えるだけ、罪悪感に飲み込まれそうになる。
しかし、そんなメッセージを私達に送りつけること無く、作物はただ育てられ、ただ食べられる。
私達に何も言わず、何も悟らせずに、私達を生かしてくれている。
これを「有り難い」ものだと言わずに、何と呼べば良いのか。
能天気に生きられる今日という一日を形作っている、想像もできないくらいに多種多様な存在がある。
その全てに対して、舌足らずな私達が紡ぎ出すことができる唯一の言葉。
それが「ありがとう」なのかもしれない。
だとするならば、いくらモヤモヤしても、言うしか無い。
「ありがとう。」と心を込めて言うこと以上に、私が私の食べる命に対してできることは、きっと見つけられないのだから。