フランケンシュタインを巡る、機械論と神秘性
フランケンシュタインの物語は、とある生物実験から着想を得たと言われている。
死んで間もないカエルの筋肉に電極を差し込み、電気を送り込むという実験だ。
カエルそのものは死んでいるのだが、電気を流すと筋組織が反応し、ピクッと足が動く。
死んだものが動く。
この神がかっているようにも思える現象に驚かずにいられる人間は当時少なかっただろう。
生命体という神秘性を帯びた存在が、電気信号で動いているだけの単純な機械であるかのようにピクピクと動く。
自分自身も含めた自然界に対する認識そのものすら、変えてしまいかねない大事件だ。
人の手で加工し、ツギハギだらけで生きながらえ、怪力を誇る人型の装置という発想は、至極真っ当な連想の先にあるもののように感じる。
マン・オブ・スティール、アイアンマンなどのネーミングから分かるように、人間が機械のような強さを手に入れることへの憧れは、現代でも続いている。
しかしその発想の根源は、人間が電気信号とその反応装置の塊に還元されるという、カエル実験で得た直感ではないだろうか。
そのように還元されるのであれば、それを、機械をカスタマイズするように改変し、もっと強い生命を作り出せるのでは無いか。
人間を、人間の理性の元デザインし、ある方向に向けて押し進めることが可能なのではないか。
その思いが、こうだったら良いな、自分だったらこんなふうにするな、という思いにつながる。
でも、実現するのは難しい。
その理想と現実のギャップに生まれるのが、機械を形作る金属の名前を冠した、超人的な力を持つ人間の偶像なのだ。
因果関係というのは、非常に納得しやすい論理性を内包している。
人体をそんな因果律の内側に詰め込んでしまえば、生老病死への対処法をはじき出すことができ、むやみやたらに逃げ回る必要がなくなる。
その人知を超えた神秘性に目を瞑ることで、過度な不安を和らげることができる。
人類史を不安との戦いとして見ると、カエルの実験からマン・オブ・スティールへのつながりがよりはっきりと見えてくる。
死んだカエルが動いたとき、人間は、自分たちの人体の単純さに思いを馳せ、内心愕然としたのではないだろうか。
こんなにも単純な構造で自分たちはできていたのか。
これではまるで機械ではないか。
自分たちは、自分たちが普段使っている道具と同じような”もの”でしかないのか。
人間という存在の価値に対して抱いたこのような不安は、その機械のような身体をむしろ肯定し、利用するというしたたかさによって、克服される。
身体が機械のようなのであれば、その構造を把握して、適切にメンテナンスやアップデートをしていけば、病気や死を克服し、より強力な存在にもなれるのではないだろうか。
こうして、そのような存在のイデアとしてのマン・オブ・スティールが登場する。
では、人類はもはや不安を持っていないのだろうか?
その答えは、もちろん否である。
現代を包む不安、それは、論理性の限界を見たことにより発生している。
人間は、頭で考えるほど、論理性を正しく扱うことができないという事実が発見されてきた。
これまでの人間活動を支えてきた、理性的に納得できる因果律に、どうしても当てはまらない事象が多数確認されてきたのだ。
アート、気、東洋医学といった言葉が市民権を得始めているのは、このためである。
論理性から神秘性への回帰が起こっている。
もし今、もう一度あのカエルの実験を行えば、人々はどう感じるのだろうか。
その肉体が電気で動いたことに対して、機械のようだと感じるのではなく、そもそも、そのように電気信号によって身体を動かすように作られている、そのような構造を持っているということ自体に対する、畏敬の念を抱くのではないだろうか。
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