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沖縄野菜クラブ 9 くれないの芋

沖縄野菜クラブ、今回の活動は前回に引き続いて除草である。

前回の作業では抜ききれなかった草花を抜く。これが今回集まった六名に課せられたミッションだ。

足首に絡みつくスイカのツルと滴る汗に身体を惑わされながらも草を抜き続け、約一時間ほど経った頃。そろそろ休憩、と思い始めた筆者は、その足元に予期せぬものを発見した。

イモのツルである。

我々はこの畑にイモを植えた。したがって、そのツルを発見するのは至極当然のことである。ではなぜ筆者はそれを形容するにあたって”予期せぬもの”などという代名詞を使うに至ったのか。

その原因はツルを発見した場所にある。

我々はこの畑にイモを植えてはいる。しかし、今まさに筆者の長靴に踏み潰されそうになっているこのツルは、我々が植えたイモから見ると畑の反対側、距離にして10メートルは離れていそうな位置に根を張っているである。

植えるときに一株誤って落としたのか、おちゃめな誰かの気まぐれか。神か仏かあやかしか、果てはキジムナーまで引っ張り出して、その原因を考える。

しかし分かるはずもない。植えたのは三ヶ月も前なのだ。

昨日の流行歌も今日には忘れるファストな時代を生きる我々にできることは、生い茂る雑草の中にあってツルを脈々と伸ばし続けていたイモの存在をただ受け入れることだけである。

今どきはイモもリモートで育つのか。とかなんとか言ってみる。

そんなふうにこのイモについて各自自分を納得させ作業に戻った我々だが、カマを振るうその腕を動かす脳細胞の片隅には、常にある一念が住み着いていた。

「あのイモを掘りたい。」

十月末に予定されているイモの収穫祭を控えた我々(特に部長)にとって、荒れ果てた畑を目前にして持ちうる最大の関心事はイモの生育状態の如何である。

葉っぱは元気に茂り、ツルも伸びに伸び、一見順調に育っているように見えるイモだが、地面の下がどうなっているのかは藪の中ならぬ土の中だ。掘ってみなければ分からない。

そんなところにヒョイと顔を出したのが、このMs. ストレイ・ポテト(はぐれイモの意)。

我々は色めきだった。

種々の雑草に囲まれるという過酷な環境下において育ったこのMs.が立派に育っているのなら、そのために作った畝で育っているイモたちはもっと立派に育つのが道理。このMs.の生育如何によって、収穫祭の成否も占えるというものである。

スコップを持参していないなどという事実は我々をMs.の発掘から遠ざけられるはずもなかった。


ツルをたぐったその先に、地中に続く根の金脈を、畑にあった木の枝片手に、粘土の湿りを掘り進み、突き当たったは玉の肌。

白く輝くその表面は、確かな実りをものがたり、掘り起こさねばという意思を、さらに強固に醸成し、我らは交代交代で、木の枝片手に掘り進む。

イモは過酷な状況でこそ、大きく育つものと聞く。しからばこのイモは苦労人。見よこの大きさを。まだ掘り起こせずにいる我々を。

色の白きは七難隠す。イモには七難与えるようで。この色白のMs.は今、やっとのことでその全身を、我々の前に現すに至る。

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まだ九月も上旬だというのに、これほどの大きさのイモが取れてしまった。来月末に我々を待ち受けるのは世紀の大収穫祭だと予言されたようなものである。

期待と同時に膨れ上がった、掘りきれるのか?という不安を胸に、我々は帰途につく。

本来やるはずだった、イモのツル返しと生姜の収穫のことなどすっかり忘れて。


ところで、イモは収穫から一週間ほど寝かせるとおいしくなるらしい。

来週末に開催される予定の本クラブの活動に参加すれば、おそらく一番乗りでその味を楽しむことができるだろう。

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Takumiのessay
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