沖縄野菜クラブ 19 ふぞろいの人参たち
海開きを終えた沖縄は一足飛びに春を通り越し、すでに夏の日差しを取り戻していた。頬をなぞる風には冬の息吹が残っていたが、畑を這う種々の虫たちは、そんなものはまさにどこ吹く風といった様子で忙しくうごめいていた。
ミミズ、ゴキブリ、コオロギ、チョウチョにミツバチ。
じゃがいもを収穫しようと掘った土の中から、人参を取ろうとかき分けた葉っぱの陰から、彼らが幾度となく飛び出して来る場面に出くわすと、まるで畑が無数の生命の塊であるかのように感じた。
収穫をするという行為は、その塊の一部を切り取ろうとすることであり、その時は、その部分だけをきれいに切り取るということは不可能で、必ずその周りの部分も一緒にポロッと外れて、チョウチョやコオロギへと姿を変えて飛び出すのである、と、そのように感じた。
今回収穫したのは、じゃがいも、人参、玉ねぎ、らっきょう。カレーを作るしかないように思われるラインナップであるが、意図したわけではないそうだ。
人参を収穫しているときにふと思ったことが一つあった。それは、育っていた人参の大きさの違いからくる気づきだった。大きいものではおそらく20cmほどのものがあったが、小さいと子供の小指くらいの大きさにしかなっていないものもあった。
大きな人参を収穫するために、これまでに小さいものをある程度間引いてきたそうだが、それでもまだまだ密度が高すぎたらしく、栄養に偏りがあったことがこの違いの理由のようだ。
改めて、普段店頭で目にするものは、綺麗に間引かれた上で大きく育った一部の選りすぐりなのだと思うと同時に、本来はこのように大小様々に育っているものなのだと感じた。
しかしそれも、考えてみれば当然の話だ。人参からすれば、後世に遺伝子を残すことが第一目標であり、それができるのならば、自身の大きさなどは二次的な問題である。大きければ大きいなりの長所と短所があり、小さいものも同様である。どちらが良いということは無く、長所が上手く発揮され、短所が目立たなければ子孫を残すことができる。
そこに人間の尺度を持って来るから、良し悪しが決まり、「間引き」なる概念が成立するのである。
畑の土の中で、ただ静かにそれぞれの大きさに育っていた人参たちを見ていると、自分は自分の大きさでいいし、あいつはあいつの大きさで良い、と思えるような気がした。
「立派に育つ」というのは、「そいつなりに育つ」ということなのかもしれないと感じた。