オレンジの砂漠は哲学を語る
地平線の向こうがほのかに色づき始めた頃、私は約7ヶ月間を過ごしたケアンズを経った。
目的地はエアーズ・ロックである。
オーストラリア大陸の内陸部は果てしなく砂漠が続く。
太陽が完全に地平線を通り抜けたころ、飛行機の窓から眺める景色はすでにオレンジ色の砂と岩で覆われていた。
しばらくその景色を眺めていた。ピンク・フロイドの「The Endless River」を聞きながら。
それまでの人生で見たどの景色とも違う、その大地のありさまを眺めながら、私は、私の中にその光景を保管する場所を探していた。
そんなとき、ふと、ある言葉が浮かんできた。
「はだかの地球」
そう、私の見ていたものは、はだかの地球だった。
人工物はおろか、植物も、川や湖すらもない、すべての服を取り払った、ありのままの地球がそこにはあった。
私は、その在り方に圧倒されていた。
そこにある「無秩序」に圧倒されていた。
私達が、私達という小さな実存から編み出し、崇めている法則性などでは決して計り知ることのできない何かによって、それは形作られていた。
しばらく平野が続いたかと思うと、急にゴツゴツとした岩が顔を見せ、かと思うと今度は地平線まで果てしなく続く、長い長い川の跡が出現した。
それらの中には一つとして同じものはなく、ただ無限に続くランダムネスが目の前を流れ去っていった。
私の脳みそは考えることを止めた。
ただ、それが地球の、ひいては宇宙のありかたなのだろうと、そう思う以上のことはできなかった。
普段私達は、家を建て、道路をひいて、植物を植え、そういうものに囲まれて日々を構築している。
そんな日々に法則を見出し、それに従って、予測のつく範囲で行動するように心がけている。
しかし、そういった営み全てを乗せて宇宙を漂うこの天体は、そんな次元で存在してはいない。
それは、ただ、”そこに在る”のだ。
雨が降ろうが槍が降ろうが、関係ない。どこで地割れが起きようが、どこの火山が噴火しようが、それはそれとして、そのように在り続けていくのだ。
天体に意思はないだろう。しかし、哲学はあるのではないだろうか。
私達は死ぬとお星さまになると言う人がいる。
星そのもののように生きることが、人生の目指すべき場所になりえるのかもしれない。
そんな妄想に取り憑かれたころ、飛行機は着陸態勢に入った。