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「気遣いが無い」と言うあなたは野暮かもしれない


デートでレストランに入ったとき、椅子とソファが併設されたテーブル席で男性はどちらに座るかという話を、朝の情報番組で扱っていた。

一般認識として、男性は女性をソファにエスコートしてから椅子に座るものだ、と紹介されていた。こうした不文律を意識していなかった男性が、周りのカップル客からクスクス笑われ、挙げ句の果てに彼女から、「ああいう時はソファに女性を座らせるものなんだよ」と窘められたエピソードがネタ元であった。

自分は、女性が同席するときはソファへ誘導する方だけれど、決してこのエピソードに出てきた男性を、非難できるほどの人間であるとも思わない。

その男性は女性への気遣いが無かったのだ、とも言わない。ただ、彼にはそうした状況を気に留める「感性が無かった」だけなのだ。

「気遣いが無い」と言ってしまうと、主観的な意見にはなるが、「あるべきものを持っていない」、つまり皆が一律に最低限備えた0(ゼロ)の状態であるべき感覚が、その人は欠損しており、−(マイナス)の状態にあるという印象を受ける。

一方で「感性が無い」だったら、人によっては「特別に持っている」、つまり特有の+(プラス)で備わっている感覚がその人には無い印象を受ける。マイナスではない。肯定的意味でのゼロだ。

同僚と上司が他所で、「いかなる場面でもあの人はすばらしい気遣いを見せる」と自分のことを言っていたら、悪い気はしないだろう。ただ、「あの人はあらゆる場面への感性が鋭い」と言われていたら、さらに自分が高みにある印象を受ける。

だから「気遣い」云々と言うのは、とてもミミっちい感じがするし、感性の有無を褒める言葉の方が、言う方も言われる方も気分がいいだろう。感性という大きな括りの中に、気遣いという概念が包摂されていると思う。「感性が無い」という捉え方について、もう少し深めてみよう。

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不文律をめぐる葛藤

就活生のあるあるネタのひとつに、「服装自由」の心理戦がある。就職説明会の案内にある、「説明会へは自由な服装でお越し下さい」との但し書きに、スーツで行くか、カジュアルな格好で行くかに頭を抱える学生が一定数いるそうだ。スーツで行ったら、意外にビジネスカジュアルの服装の参加者が多くて面食らった、というエピソードさえ聞いたことがある。

こうした一種の不文律に状況判断を下すとき、その人の感性が大きく問われる。配慮や気遣い、TPOと言われるこの感覚は、人によって大きく異なる。自分の、服装や行動指針の感性にそぐわない人を見て「不躾な!」と思っても、そう見られた当の本人は全く意に介していないことだってある。

自分は、実は服装にはあまりこだわらない方で、スーツがマジョリティの会でカジュアルな格好をして行っても、指摘されない限り“違和感”に気付かない人間だ。さすがに結婚式で黒づくめのスーツ、葬式でピンクのドレスを着た人がいれば、二度見するだろうが。

かつて自分にこんなことがあった。大学内で、修了にあたっての集大成となる論文公聴会での出来事だ。集大成とはいえ、定期的に行う発表と変わり映えしない教授陣と学生陣を相手にした、いわば内輪の感じが強い会だった。

だから自分は、シャツにジーパンのいつものスタイルで登壇した。会が終わってから、後輩の学生に「今回ってスーツじゃなくて良かったんですか?」と訊かれた。自分は「あっ、スーツじゃないとアカンかったの?」と、そこで初めて自分の服装が違うことを意識した。

思い返せば、その日周りにいた同窓生はたしかにスーツ姿だったし、前年に見た先輩方の服装だってスーツもいれば、ジャケットの人もいた。けれど、そんな不文律のドレスコードがあるとは意識にも無く、せいぜい「(同窓の)彼女たちはこのあと就職先に出向く用事でもあるのだろう」とか、「パリッと決めて、気合入ってるな〜」程度の感じで自分はいた。

その公聴会からひと月して、そこに同席していた年配の博士の方から、「あのときは正装で来るべきよ。先生もキッチリした格好だったでしょ」と、老婆心で直接的なことを指摘された。もうこうなると自分にはわからない。普段からそこまで崩れた格好をしておられる訳ではない先生方の、公聴会の日の服装に特別な関心は無い。

「その日は正装で来ること」という決まりが無い日の服装は、もはやその日をどう捉えるかという感性の問題であり、不文律にする以上、そうした感性の食い違いがあっても不問にすべきではないだろうか(公的に注意するのはもってのほかで、オフでも咎めるのは良くない)。配慮や気遣いが無いのではなく、自分には「服装に対する感性が無い」、これに尽きる。

前年の先輩の服装から判断できたし、同窓生から公聴会までに服装のことを訊く機会もあっただろう。こう仰られても困る。あくまで自分は、日常で誰が何を着ていようとそこまでこだわる感性が無いのだから、参考にしようとも尋ねようともならない。

(※とはいえ服装へのこだわりは、舞台やファッションショーといった特別な場において、自分は意識する。あくまでそうした場での服とは、非日常を徹底的に演出する道具であって、役者やモデルとして参加したわけでもない公聴会に、そこまで服装へのこだわりを求めたりはしない。)

こうした背景もあってか、女性を差し置いてソファに一目散に座ってしまう男性を、「仕方ない」と自分は割り切れる。その男性は、「その場の様子や彼女の思うことを読み取る感性が無い」。自分は「服装への感性が無い」。それだけだ。

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気遣いの鬼はこだわりの鬼?

考えてみて欲しい。野球、ヘルスケア、競馬、鉄道、美術館、ゲーム、ヘヴィメタル、これらのいずれか一つ以上、あなたの感性にしっくり来ないものがあるのではないだろうか。競馬にそれほど興味が無いあなたなら、馬の毛ヅヤがどうとか、あの年の有馬記念がどうとか言ってくる人は、うまくやり過ごしたい相手だろう。そんなあなたは、「競馬を楽しむ感性が無い」のだ。

こう言うと、「競馬とエチケットを同列にしてくれるな! ウマへの想いと人間への配慮を並べるな!」なんて声が聞こえそうだ。でも、他人への配慮だって、それはあなたの感性であり、趣味でしかないのだ。

エチケットを守るときに働かせるのは、その人の中にある規律遵守の意識である。「その人の中で」というのが厄介で、あなたの不文律は他人にとってみれば、あなたのこだわりでしかない。実はこの規律・ルールと趣味・感性は、不文律である以上とても曖昧なもので、紙一重の関係にあるのではないか。人によっては規律でも人によっては趣味でしかないグレーな事柄が、世の中には溢れている。いずれかにキッチリ分類できるものの方が少ないのだ。

たとえば、食い方にうるさいラーメン屋の話を聞いたことはないだろうか。店のオヤジ曰く、ラーメンは汁から啜り、麺は噛まずに汁と交互に食えという具合の、客からすれば「カネ払ってるんだ! 好きに食わせろ! 大将の趣味に付き合ってられるか」と反発やむなしの、鬼の鉄則だ。ラーメンに対する感性は、人によってこうも違う。

あるいは、マナー講師の話。ある界隈からは「失礼クリエイター」なる不名誉な肩書を授けられたそうだが、「無礼」を粗探しする趣味の持ち主だということか。確かに書類に捺すハンコだって、上司の横に部下が続けて捺すときは慮って、目上にお辞儀するようにすこし傾けてやらなければならない、とどこかで読んだ。

そうしたハンコの向きだって、ラーメンを食す流儀だって、ある人の趣味である。本人がルールだと思っていても、それを気にする感性が無い人にとっては、こだわりなのだ。もっとも、そうしたこだわりがあるから、ラーメン屋になったりマナー講師になったりしているのだろうけれど。「気を遣いなさい」と言うのだって、その人がもつ独特の感性を押し付けているようにも取れる。その意識を磨けば、気遣いでご飯が食べられるようになるかもしれない。

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時代が時代なら…

立場やステータスが違うがゆえに生まれる、趣味・感性と規律・ルールのグレーゾーンは他に、次のような事由でも起こる。

LGBTはすっかり今では浸透しているが、自分が記憶するところでは、15年前くらいだとお笑いのネタにされていたはずだ。今日では、とある区議の主張が問題視されたように、LGBTを性的な趣味嗜好として唾棄する人を、非常識とする社会一般になった。趣味やそういった感性だと思われていたものが、社会的に示すジェンダーとして、一つの制度にまでなった。けれども、LGBTやジェンダー論は基本的に両方の性質を持っていて、曖昧であることに変わりない。個人的趣味か(恣意的な)規則のいずれに当てはめるのは無理がある。

(※LGBTを趣味と表現するのは難があると思うけれど、感性だということについては確信がある。仮に脳での反応の仕方が異性愛者と異なるとすれば、それは感性である。感性とは同じ事象でも脳内で異なった処理をし、感じ方をすることで生まれるものだと自分は思っているので、同性愛などだって、それは一種の感性だろう。)

男女の性を記入する欄を消した、文具メーカー製作の履歴書が生まれるくらいだ。自治体の議会で扱われるテーマにもなった。時代の進行に伴って、LGBTは趣味や感性の問題だと一向に思われていたものが、制度や権利を動かしつつある。不文律における感性と規則(規範意識)は紙一重、の意味がよくわかって貰えたと思う。社会通念の変化で両者間のグレーゾーンは簡単に変動する。

そうすると、常識なんてせいぜい当世の大衆意見の産物でしかない。多くの人が、あることに対する感性を持っていて、たまたまその感性とは異なった人がいたら非常識。別のあることへの感性を持った珍しい人がいて、他の大多数は持っていなかったとき、前者の人は非常識。非常識のレッテルはこうして貼られる。世知辛い。

「いい歳をした大人がアニメに熱狂して!」と、時代が違えばそんな意見もまかり通った。社会の暗黙のそうした了解は簡単に崩れ、変わってしまう。多くの人がその感性を理解し、元々持っていた人のカミングアウトも手伝って、その感性は常識となる。常識は社会の規範だと思われがちだが、元はニッチな感性だったなんてこともある。

本当に守って欲しい規則なら書けばいい。立場やステータス次第、あるいは時代性次第で捉え方の変わる感性というものに、不文律を守れと求めないで欲しい。理不尽な言いつけでない限り、たいていは守るだろう。本当に議論すべきは、言いつけのその理不尽さをどういった基準で判断するかである。これは昨今のマスク着用問題や、たびたび起こる新法案の違憲か否かの論争などにも繋がって、長くなるので書かない。

そして不文律は、徹底するべきではない。不文律をわかり合うもの同士がつくる、村や町、共同体はたくさんあるし、それを楽しむハイコンテクストな間柄があってもいい。けれど、こうしたものをすんなり受け入れられ、感性のレベルで容易に判断できるくらいの人間どうしが、そうした不文律を楽しむべきであって、それが人を苦しめるものであってはならない。共同体に入るための洗礼として、伝家の宝刀くらいの位置づけにその不文律はあるべきだ。

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補足

感性の有無について、さらにいくつか説明を付け足しておこう。

◎感性の違いはごく身近にある違い
金子みすゞの、「わたしが両手をひろげても、お空はちっともとべないが」で始まる有名な詩がある。彼女は鈴や小鳥と「わたし」との、見た目にも能力的にも違う、そのことの素晴らしさをしたためた。子どもに訴えるなら、そうした見た目にも分かりやすい例でいいだろうが、違いはもっと身近に、己の内にあることを、大人にもなれば意識していたい。感性の違いも、立派な違いだ。周囲の雰囲気に敏感な人もいれば、鈍感な人もいていい。

◎感性がどうしても合わないとき
しかしながら斯く言う自分も、「失礼だな」と憤慨する場面はある。一緒に食事をしようと約束して会ったはいいものの、終始スマホをいじり続ける人には開いた口が塞がらなかった。話しかけても、ふんふん言いながらご飯を貪り食う彼を二度注意したが、効果なし。あまりに、気付きの感性がその彼に無かったようなので、以降、再び会うことは無かった。

どうしても相手のそうした感性の違いを認められないなら、関わりにいく必要も無いのだ。そういった違いがいくつもあれば、尚更だ。法律違反と違って矯正すべきものではない。

気遣いが無いと考えれば、相手の至らぬ部分を責めることになるが、このときのように、感性が無いと考えれば、ごく一面的な欠点を見つけたに過ぎず、自分も持っている別の面での感性の不足に、気付くきっかけにもなる。「感性」はとても意味の広い言葉だ。

反対に感性が違ったことを理由に、仲間から外されていたとしよう。それも心配はいらない。感性は無理に他人と合わすものだろうか。ましてや不文律を感じろというのは、説明無き感性の押し付けに過ぎない。それが理解できないあなたはダメなのだろうか。むしろ、あなたの感性が活きる場所があって、それがたまたま今いる場所ではないだけなのかもしれない。それが誰も持たない、特異な感性だという場合もあるかもしれない。あなたは天才、鬼才かもしれない。その感性が活きる場所で試さないうちは、腐ってはならない。

◎感性と関心
よく間違えそうだが、「(例:服装に)関心が無い」ではなく「感性が無い」である。誰かに指摘されるか自分で気付くかして、例に挙げた服装に関心を持つと、感性は鍛えられていく。関心次第で感性は養われていく。関心と感性は順接的な関係だ。

むろん、感性は多岐にわたって磨かれていた方が確実にいい。その感性は想像力とも言い換えられる。常に関心のアンテナをたくさん伸ばしておけば、生活が愉快なものになる。けれども、どうしても感性が内在化されない場合だってある。野球やコスメ、競馬や絵画などの魅力を語られたって、自分の感性に響かないものはいくらでもあるだろう。

それと同じく、不文律として高度な心理戦を強いてくる周囲への気配りやTPOだって、これらへの感性が深まらない人はいる。その人を前にして、「配慮が足りない」と口走りかけたとき、相手は異なった感性の持ち主だ、と思えば割り切れるかもしれない。そう言われる側の人も、周囲への配慮が至らないことをそこまでナーバスになるべきではない。感性を磨いていければいいというスタンスで、関心を広くもって生きる方が、総体的に楽しい。

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まとめ

最後に、こうした考えが広まることを切に願う。「感性が無い」という思考は、相手とこの認識が共有されて初めて意味をなす。逐一の物事に対する感性の有無はお互い様にある。お互い様という性質を相手も理解していないと、「感性」云々と言うあなたは、ただの開き直りに間違えられるだろう。

「気遣いが無い」と「感性が無い」は最初のほうで書いたように、ニュアンスがけっこう違う表現だ。「気遣いが無い」と各所に思う人や言う人は、一度、その言葉のチョイスに「言葉への感性が欠けているのでは」と顧みる余地があるはずだ。

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