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20世紀美大カルチャー史。「三多摩サマーオブラブ 1989-1993」第21話

渋谷クラブ・クアトロをホームに活動を続ける中、1993年の初秋、我々バンドに新しい仕事が入った。

岐阜県で行われる「長良川河口堰建設反対・野外音楽フェスティバル」への出演である。

トリはムッシュかまやつで、我々はムッシュの前座である。

我々は「河口堰反対フェスティバル用」のショーを組み立て、リハーサルに勤しんだ。

当日の朝、我々メンバーはそれぞれチームに分かれると、それぞれの車に分かれて一路岐阜県を目指した。

私は、実家が愛知県であるキーボードのモロオカのチームであった。

調布インターから中央自動車道に乗ると、秋晴れの気持ちのいい空の下を西へと向かった。

数時間走ってから高速道路を降りると山間の道を車は進んでいた。

「着いたぞ」

と、言われて降りたら、そこは「下呂温泉」であった。

「まずは温泉だ」ということで、下呂温泉の公共風呂に浸かって、再び会場を目指した。

「ここだ」

と、次に言われて降りたら「味噌カツ屋」であった。

「ここの味噌カツが最高に美味い!」と地元のモロオカは解説していた。

そして再び会場を目指した。

夕方が近づくにつれて道は混み始めていた。

「もう少しだ!」と言いながらも、時間は出番の午後6時の15分前になっていた。

さすがにヤバいんじゃないか?という空気が社内に漂い、皆に緊張感が走り出す中、

「あれだ!」と叫ぶや否や、長良川の河川敷が見えてきた。

河川敷にステージが組まれている。

時間は出番の3分前であった。

車はそのまま河川敷の中を猛スピードで突っ走ると、野外ステージの真横に滑り込んだ。

バタムッ!

急いで扉を開けると、メンバー全員すでにステージに上がっており、ステージ脇には出番を控えているコヤマが居た。

コヤマと私は目が合い、ヤツは「心底ほっとした」顔をしていた。

まるで『ブルース・ブラザース』のクライマックスシーンである。

コヤマはすぐさまステージに駆け上がると、
いつものように客を煽った、

「グッド、イ~~~~~ブニング!!!!!」

続いて私もステージに駆け上った。

ステージに上ると目の前には長良川が流れていた、当たり前の話だが。

その先には、丁度真正面に、正に西に沈まんとする夕陽が光り輝いていた。

長良川の川面は夕陽に照らされてキラキラと煌めいていた。

河川敷には気持ちイイ風が吹いていた。

ライブが始まるや、ステージの前にはだんだんと人が集まってきて、皆気持ちよさそうに踊っていた。

バンドは「河口堰反対!フリーダム!!!」と、この日のために歌詞を変えたオリジナル曲『グルーヴはお願い』を演った。

気持ちのイイ風景と吹き抜ける風とともに、バンドは最高の演奏をした。

音は気持ちよく長良川へ向かって飛んでいた。

私は上半身裸になってステージ上で飛び跳ねた

夕暮れのステージ
日が暮れたステージ

夕陽、煌めく川面、吹き抜ける風、最高のバンド・グルーヴ、、、

メンバーの中には、この日のライブを「バンド史上最高の演奏」と絶賛する者も居た。

ライブを終えると、いつものように私は一人になり、河川敷の駐車場に向かった。

ステージ横から移動した車の助手席に乗り込むと、シートを倒して眠った。

陽が暮れて辺りは暗くなっていた。

そこへ、遠くから音楽が聞こえてきた。

「何にもない、何にもない、全く何にもない、、、」

ムッシュかまやつの『奴らの足音のバラード』である。

ムッシュのライブが始まっていた。

私は横になりながらその郷愁感極まりない歌を聴いていると、下半身の辺りがムズムズして、もうとてつもなく寂しくなってきた。

真っ暗な中、たった一人で宇宙に取り残された気分であり、それはまるで小さな頃に一人で家に居て夕暮れを迎えたときのような、自分の存在が闇に溶け込んで消えてしまうかのような怖さを伴っていた。

「ひえ~~~!」

と私は飛び起きると、ステージ前に向かって半泣で走った。

ステージ前にはバンド・メンバーが居て、ムッシュのライブに酔いしれていた。

私はムッシュよりも「人間の暖かさ笑」に心底ほっとした、まるで「芥川龍之介の『トロッコ』のラストシーン」のように。

そして、イベントは終わり、メンバー全員で名物「どて焼き」を食べた。

どて焼きをほおばりながら、メンバーは口々に今日のライブの素晴らしさを語り合った。

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1993年もあとわずかとなった。

そこへ、また新しい仕事が入った。

「JALの忘年会でライブ」とのことであった。

会場の都内大手ホテルの宴会場は、まだまだバブルの余韻が残っていた浮かれた空気に包まれていた。

我々が普段絶対に出会わないような「俗世間の一般社会人の皆さん(JALの社員さんたち)」で会場は溢れていた。

彼らは同じブラック・ミュージックでも「ボビー・ブラウン」の側であった。

私は、JALがスポンサーをしていた清水エスパルスの応援旗をマントのように纏ってステージに登場した。

全部いつもの我々のオリジナル曲を演ったのだが、年末の酔客にとっては「なんでもいい」ようで、「俗な社会人の皆さん」は宴会場のフロアで踊りまくっていた。

この日のギャラは確か「20万円」だった。

現金が欲しいメンバーには現金を渡し、私を含めたそれ以外のメンバーは残ったギャラで、年末を伊豆は石部の我々の定宿「ひろみ屋」で過ごした。

年末の伊豆は暖かく、かつ観光シーズンが終わって人気もなく、緩やかな空気が流れていた。

「ひろみ屋」では、いつものように「鯛のお造り」が丸ごと一匹出てきて、伊勢海老やサザエとともに大皿に盛られていた。

綺麗にさばかれた鯛は、まだピクピク動いていた。

新鮮極まりない西伊豆の海鮮と温泉で、我々は昇天した。

1993年が終わろうとしていた。

(つづく)

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