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金と権力を超える「法則」②


諸仏の智恵は深甚無量なり。その智恵の門は難解難入なり、一切の声聞、辟支仏の知ること能わざる所なり

妙法蓮華経-方便品第二(鳩摩羅什訳)


あらゆる仏の智恵は、深甚無量であり、その悟りの内容は、難解であるがゆえに、宇宙の真理の一部分を悟った仏道修行者や天才のような英知の者でさえ到底知ることができない。


との趣旨。今で言えば、アインシュタインやニュートンのように宇宙の真理の一部を発見できたような世紀の大天才でさえ【諸仏の智恵】には遠く及ばないため【仏の悟り】まで到達する事はできない、と、とらえることもできる。


では、そんなにスゴい【仏の智恵】【悟りの内容】とは、一体いかなるものなのだろうか?


釈迦が菩提樹の下で悟った、

     【法則】


とは、どんなものなのだろうか?


釈迦が、菩提樹の下ではじめて【悟りを得た】ときのようすが経典には次のようにある。


心が統一され、清浄で、きよらかで、よごれなく、汚れなく、柔らかで、巧みで、確立し不動になったときに、過去の生涯を思い起こす智に心を向けた。

このようにして、われは種々の過去の生涯を想い起こした。すなわち、一つの生涯、二つの生涯、三つの生涯、四つの生涯、五つの生涯、十の生涯、二十の生涯、三十の生涯、四十の生涯、五十の生涯、百の生涯、千の生涯、百千の生涯を、

幾多の宇宙成立期、幾多の宇宙破壊期、宇宙成立破壊期を。われはそこにおいて、これこれの名であり、これこれの姓であり、これこれの種姓であり、これこれの食をとり、これこれの苦楽を感受し、これこれの死にかたをした。そこで死んで、かしこに生まれた

馬邑大経(パーリ仏典経蔵中部)


これは、菩提樹の下で、1日目の最初の「悟りを得た」ときの記述である。


ここで釈迦は、彼自身の無数の過去世を思い出している。


しかも、その輪廻転生の場面は、地球上における四百万年の人類史をはるかに超えている。


驚くべきは、幾多の宇宙の成立期や破壊期にまで及んでいる点である。


そして、幾多の宇宙成立・破壊期を透視した釈迦は別の経典で、

百億の須弥、百億の日月

仁王般若波羅蜜経(釈迦とコーサラ国王との対話)


と、この宇宙には、須弥(地球のような星)と太陽と月が、つまり、【太陽系】に当たるものが、この宇宙には百億(現代の一千万)もあると説いている。


そして、他の様々な仏典には、【宇宙の様相】がさらにくわしく説かれている。有名な、


    三千大千世界


である。これは、


 須弥と太陽と月を=【一世界】(太陽系)
         ⇩
 【一世界】×千個=【小千世界】(銀河系)
         ⇩
 【小千世界】×千個=【中千世界】(銀河団)
         ⇩
 【中千世界】×千個=【大世界】(大宇宙)


千という単位は、具体的な数ではなく【無数】を表すとしている。実際の計算としても、千の3乗であるから、この宇宙には少なくとも10億個の太陽系があることになる。


ここで、まず、特筆すべき1点がある。


それは、天体望遠鏡すらなかった古代インドにおいて、釈迦の直観智がとらえた【宇宙の構造】は、【太陽系】が集まって【銀河系】となり、その【銀河系】が集まって【銀河団】となり、その【銀河団】が集まって【大規模宇宙構造】になるという、


現代科学で判明している【宇宙の構造】とほぼ同じである。


との驚嘆すべき事実である!


第二点目に、なんと、この宇宙には、釈迦の他にも「仏」は無数に存在する、というのだ!


しかも「三千大千世界」という【大宇宙】それ自体がガンジス川の砂の数ほど存在する


というのである!


これは、【我々の宇宙】の他にも【別の宇宙】が存在する、との最新の研究理論、


   マルチバース宇宙論


という仮説とも軌を一にするものなのだ!


第三点目として、仏と衆生が存在する惑星が無数にある、とする仏教の宇宙観は、


地球のように“知的生命体”が存在する惑星が無数にあることを示唆している。


といえる。これもまた、


地球が存在する銀河系には少なくとも36種類の地球外知的生命体が存在する

 (ノッティンガム大学コンセリス教授等)


との最新理論(2020年)をリードするものといえよう。


第四点目に、注目したいのは、


    宇宙のはじまり


についてである。


現代科学の仮説では、宇宙のはじまりは、


    ビッグバン説


が有名であり、この【ビッグバン理論】は【インフレーション理論】もふくめ、「宇宙にはじまりがある」とする点が共通しているが、仏の智恵は、


 幾多の宇宙成立期、宇宙破壊期


に言及している。ここから推察できることは、【ビッグバン】をはじまりとするとしても、その【ビッグバン】は、


  本当のはじまり、ではない。


ということであろう。ビッグバン以降【膨張】している宇宙も、もし、未来に、膨張を引き止める物質の量が増えた場合、宇宙は一転して【収縮】をはじめ最後は【無】に帰する、との説も存在するのである。


それを考えれば、【ビッグバン】の大爆発で膨張する宇宙もいずれ「死」をむかえ、そしてふたたび【ビッグバン】の大爆発で誕生し、膨張し、また「死」をむかえるーー。


つまり、成立期と破壊期、生と死、を繰り返している、という新たな宇宙の姿の「発見」も将来あるかもしれない。


もし、そうであるならば、仏教の英知は現代科学をもリードしゆく内容を秘めていることになる。


そもそも仏教哲学は、【生命】を説き明かしたもの、とされる。


【生命】は、まず、

 
  ①神経や感情のある【有情】
  ②神経や感情のない【非情】


この二つに大別され、

 
  人間や動物は【有情】
  草木や星や宇宙は【非情】  


となるが【有情】である人間や動物の中にも【非情】がある。爪や毛である。切っても痛くないから、無生物かと思えば、ちゃんと生えてくるから【生命】である。


中心部に5000℃もの熱を燃えたぎらせる【地球】も、地震や火山活動、太平洋や地中海等の干満、や台風などを抱えつつ、時速1700km(新幹線の5倍!)で自らグルグル回りながら、時速11万km(ジェット機の100倍!)で太陽の回りを走り続けているのだから驚く他はない!


地球ガイヤ説を持ち出すまでもなく立派な【“非情”の生命体】であろう。


そして、昼夜を分かたず年中無休で働き続ける、この熱い【地球】を生み出したのは、星と星のたびかさなる衝突であり、その星々を生み出したのは他ならぬ【大宇宙】そのものである。


科学も数学も0から1は生まれない。0には100をかけても0なのだ。


なので、まったく何もない0からいきなりビッグバンで宇宙が生まれたとするよりも、もともと宇宙が存在し、爆発→膨張→収縮という形の“生と死”を繰り返していると考えるほうがより科学的と考えられる。


“0から1は生まれない”との【科学的観点】をさらにいえば、何もない0から「生命」は発現できない。「生命」は「生命」からしか発現できない。父と母という「生命」からしか子という新たな「生命」が発現できないように…


されば、地球上の最初の生命(アメーバ)も、地球それ自体が「生命体」であるからこそ発現し、その地球という「生命体」も大宇宙それ自体が「生命体」であるからこそ発現した。


すなわち、宇宙も太陽も月も地球も植物も動物も人間も、一切の森羅万象は、


   すべて生命である!


と喝破したのが仏の直観智なのだ。


同時に、これら一切の生命は、


   すべて一体である!


とし、大宇宙を海とすれば人間や動物や植物は波であり、「波」と「海」は別物ではない。「波」も「海」である。要するに


   すべては大宇宙


だとしているのである。


さて、それでは、この、大宇宙、太陽、月、地球、星々、植物、動物、人間、という【生命存在】は、一体、誰によって造られたのであろうか?--その答えは、


     本有常住


誰に造られたものでもなく、はじまりもなければ終わりもなく、


   もともと常住している


と説くのである。


そして、これら、もともと常住している一切の生命は、一瞬たりともとどまることなく【変化】し続けており、無始無終で生と死を、輪のように永遠に繰り返しているという。


ゆえに、人間も永遠に輪廻転生を繰り返し、星々も生と死を繰り返し、大宇宙そのものも生と死を繰り返しながら永遠に変化し続けている、と説いているのである。


こうして、すべての事象は、変化し続けているために、変化しない【固定的な実体】は存在しない。これを諸法無我・諸行無常という。


ただ、間違えてはならないのは、仏の悟達は、【物理的宇宙の解明】が目的ではなく、どこまでも【生命】というものを解明し、


   人間を幸福にする


ことが目的だということである。


釈迦自身が釈迦自身の【生命】を深く掘り下げていった果てに、ユング的に言えば、個人的無意識→集合的無意識へ、さらには、宇宙的集合無意識へ到達し、そこで感得したことの中の一部分に「宇宙の構造」があっただけで、「宇宙の構造」がいくらわかっても人間を幸福にはできないのである。したがって「宇宙の構造」などは、枝葉に過ぎず、仏の智恵の全体からみれば、まったく取るに足らないものといえるのである。


余談であるが、集合的無意識を発見したカール・グスタフ・ユングは、1940年代に心筋梗塞で生死をさまよったさいに「臨死体験」をした。その時、幽体離脱した自分が宇宙の高みから地球を見下ろしたという。ユングが見たままを描写した地球の姿は、この「臨死体験」から約30年後に、いまだかつて誰も見たことのない、人類がはじめてアポロから撮影してわかった地球の姿と同じであったということである。


ユングが無意識層の奥深くに沈潜し、地球をありありと見たように、釈迦も、さらに無意識層の奥深くに到達し、この大宇宙のありようを、走馬灯のようにまざまざと見たのかもしれない。


さて、今回は、科学の科の字も発達していない2500年以上も前のインドにおいて、釈迦という「仏」が悟達したの内容の一端が【現代の最新の天文科学の発見】と驚くほど接近あるいはリードしている点を4つの角度から指摘してみた。


さて、ここまでは仏の悟りのほんのさわりの部分に過ぎない。それでは仏の悟りの【究極】とはいかなるものなのであろうか?


次回では、引き続き、菩提樹下の釈迦の悟りのつづきを見て考えてみたい。


それでは、次の言葉で終わりたい。

仏教は近代科学と両立可能な唯一の宗教である。

    ~アルベルト・アインシュタイン~

③へつづく…

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