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本当の強さとは?「愛と誠」
本当の強さとはなにか?
「愛と誠」(梶原一騎原作)の主人公の1人、太賀誠を通して【本当の強さ】を探りたい。
太賀誠は《不良》という設定だが、現実の不良にこういうタイプはまずいない。
現実の不良は、群れる。
タテ社会だから、先輩には服従。上からカンパを命じられれば金を集めねばならず、暴力団と地続きの場合も多い。
強そうなイメージがあるが、上の先輩には逆らえない。
勇ましく牙をむける相手は、たいてい同等か自分より弱い者にならざるを得ない。
これがおおまかには誰もが知る常識的な?不良社会であり、この点は劇画「愛と誠」の作中でも変わらない。
それに対し、太賀誠は、群れない。
初めの段階では太賀に心酔した者たちが太賀をリーダーに祭り上げたため、群れているように見えるときが一時的にはあったが本質的に太賀はいつも一人である。
1人…これこそが、「男」であることと「強さ」の証であり、群れている時点で【ひ弱な坊や】だと白状しているに等しい。
しかも、一人で牙をむく相手は、自分より圧倒的に強い者、権力者、暴力団が大半なのである。
そんな太賀誠が早乙女愛の懇請で、金持ちの御曹司しか入れない当代きっての名門高校に編入。
本校の実力者であるボクシング部主将とラグビー部主将という「二大巨頭」に闘いを挑んでいく。
だが、ケンカ慣れしている太賀誠もさすがにボクシング部の連中にはかなわない。
ボクシング部主将から、機関銃のようなパンチを浴びながら、なすすべもなく、のたうち回る太賀誠の苦しそうなこと….
しかし、のたうつ苦しみを味わうことをわかっていながら、あえて強大な勢力に挑んだ
太賀誠という男に、そしてその、のたうつ姿そのものに「真のカッコよさ」「本当の強さ」を私は見る。
太賀誠には、「グラップラー刃牙」の範馬勇次郎や、「北斗の拳」のケンシロウのように、右に出る者のない【超人的な強さ】も、武道や格闘技で鍛練された【特別な身体闘争能力】もない。
彼ら「格闘技の王者」が戦う相手は身体闘争能力が主人公より下回るだろうことが暗黙のうちにわかる。
ということは、極端に言えば
「強者」による「弱者」倒し
と言ったら言い過ぎだろうか…
その意味では《身体闘争能力》という純粋な
物理的な強さ
がどちらかといえばクローズアップされている。
それに対し、太賀誠の相手はどうか?
身体闘争能力も太賀より上であり、しかも集団なのだ。
なにより、太賀誠がつねに見すえている相手というのは、誰もがふるえあがる《強大な権力》といってよい。
その【強大な権力】にケンシロウのような超人的な力もないくせに、たった一人で立ち向かっていく…
これが、太賀誠のスゴさだ!
なぜなら太賀誠のような闘いかたは、単なる《肉体的な強さ》ではなく、
《精神の強さ》
がなければできないからである。
要するに気の遠くなるほどの《勇気》が求められるということだ!
自分が勝てそうな相手や弱い相手と戦うのなら誰でもできる。度胸もなにもいらない。
一言でいえば
男の恥っさらし
でしかない。
自分より弱い相手と闘う、いや、そんなものは【闘い】という名にも値しない単なる「いじめ」であり、男を捨て、誇りを捨てた、《ひ弱な坊や》だけができる、男として一番ダサいことなのだ。
そう考えると、
「身体闘争能力」で絶対に勝てない相手に対しても立ち向かえる
ということが
【精神の力】
の証明である。
「身体闘争能力の強さ」は、コンディションや加齢で勝ち負けが左右される移ろいやすいものであり、拳銃、爆弾などには歯が立たない相対的なものである。つまり《絶対性》がない。
したがって身体闘争能力に《本当の強さ》などを求めることなどは到底できない。
と結論せざるを得ない。
それに対し《精神の力》は、いかなる相手いかなる状況にも左右されない《絶対性》を有するのである。
したがって、精神の力にこそ「本当の強さ」を求めることができる。
と結論づけられる。
それを証明するかのようなストーリー展開がつづく…
舞台はガラリと変わる。
太賀誠が名門校から転校した高校は通称【悪の花園】ー全国から札付きのワルが集まった吹き溜まりだ。
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今までとは世界が、180度ちがう。
この全国のワルが集まった、その頂点に【影の大番長】がいる。
その大番長には、【暴力団組長(養父)】という後ろ楯がいる。
さらに、大番長はナイフ投げの達人であり、皆から恐れられ、崇拝されている。つまりは【全校生徒が大番長の手下】ということである。
この悪の花園に、ボクシング、空手、柔道のエキスパートである体育教師が赴任。早乙女愛の父親が送り込んだボディーガードなので、悪の花園の実態は承知の上だ。
ケンカなら太賀誠より何倍も強いから、札付きのワルが束になってもかなわない。
太陽のように明るく、なにものも恐れないこの格闘家教師の不敵な高笑いが《悪の花園》に響きわたった…
しかし、ある日突然、この体育教師は大番長から投げナイフの洗礼を受け、身体には傷一つなかったが、《極限の恐怖》のあまり、発狂し精神病院に入院。
こうした「強大な力」を目の前に見せつけられたにもかかわらず、太賀誠は、この、バックにヤクザの組長、配下に札つきのワル数百名を従えた、《影の大番長》にたった1人で立ち向かう。
いよいよ決闘の日、橋の上を大番長めがけて突進する太賀誠の身体に情け容赦なく投げられる大番長のナイフが何十本も刺さり、ついに血祭りにされる。
出血多量で瀕死の状態で病院に運ばれるが早乙女愛の輸血を受け、なんとか死をまぬかれた。
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そして、「愛と誠」全体として一番の見せ場ともいえるシーンがこのあとにくる。
早乙女愛を人質に取られた太賀誠は体じゅうのナイフの傷で半死半生の体を引きずり大番長たちのもとへ向かう。
片足を引きずりながら、よろよろ歩くのがやっとの状態である。これでは殺されにいくようなもの。
ところが太賀誠を待ち受けていたのは殺されるよりもっと苦しい拷問…
大番長は言う、“早乙女愛を身代わりにしてくれ、と懇願すればすぐに解放する”と。
上から吊るされ、ナイフの傷口を複数の手下どもに、いっせいにムチ打たれはじめた太賀誠はあまりの激痛にバタバタと身をよじってのたうち、わめき叫ぶ。
“まな板の上の鯉”とはこのことだ。手も足も出せない。
今までは強大な相手に対し、そこそこの腕力や駆け引きや術策を総動員して切り抜けてきたが、今度は、それらが全く通用せぬ、
絶体絶命の窮地
に他ならない。だからこそ、
いよいよ太賀誠の「本質」が明らかになる!
手下どもに身体を押さえつけられた早乙女愛が「太賀誠を助けて欲しい!」「私が身代わりになる!」と叫びつづける...
と、一瞬のスキをつき、早乙女愛がムチ打たれている太賀誠のもとへ駆け寄った!
ムチの一つが早乙女愛の背中を直撃し、はじき飛ばされた彼女のセーラー服の背中部分が無惨に破け、その肌に血がにじむ...
「痛いっ!なんという痛みっ!ひとむちだけでも発狂しそうなほど痛いっ!....それなのに誠さんはこのムチをナイフの傷口に数え切れないほど受けている...」と早乙女愛がうずくまる。
太賀誠の腕、胸、肩、腹、足にあまたある、まだ生々しいナイフの深い傷口に、渾身の力で狂ったようにムチ打ち続ける大番長と手下たち。
傷口からは血が飛び散り、太賀誠はとても人間のものとは思えぬような叫び声をあげながら、目を見開き、身体をよじり、足をバタつかせ、のた打っている。あまりに凄惨なリンチである。
すると突然、まだ、わずかに残っていた動力で、太賀誠は自分にムチ打つ大番長の顔にツバを吐きかけた!
そして言う、「オ、オレが…の、の、のこのこやってきたのは……早乙女愛のためなんかじゃねえ…自分の……誇りのためだ!」
太賀はつづける、「その誇りは、てめえが、暴力団の大親分を後ろ楯にしたときに、失くしちまったものだ!」
大番長は返す、「バカな。高原組長の養子になったとき、初めて“誇り”を手に入れた。不良もヤクザも教師も生徒もあらそって頭を下げてくるようになったのさ!」
太賀誠は言い放つ、「違うぜ...エサのいいブタが人一倍太りくさり、やせブタどもを引き連れてのし歩いてるだけのことじゃねえか。オレは狼だ!狼がブタに頭を下げてどうする!」
よせばいいのに、こんなことをいうから、火に油を注ぐ結果となり、拷問はさらにエスカレート。
ベルトでさんざんムチ打たれた無数のナイフの傷口に、今度はなんと「塩」を塗り込み、その上からさらにベルトでムチ打ちしはじめたのだ!
大番長は何十回とむち打ちながら太賀誠に言う。
”早乙女愛を身代わりにするといえば許してやる“と。
むち打つ音と同時にナイフの刺し傷にすりこまれた塩と鮮血が飛び散る。
もう、体がちぎれてしまうのではというくらいベルトでむち打たれ、激痛がついに極限に達した太賀誠はグゥワオオオオオオオオーッと叫んだかと思うと、パタッとうなだれた。
そして、ピクリとも動かなくなった
...白目をむき、犬のように口からベロとヨダレをだらしなく垂らしている...
見るも無残な、凄惨な姿になり果ててしまった…
もう、ほとんど死んだも同然である。
と、その直後、太賀誠はクワッと片目を開いた!
そして、ゆっくりとではあるが、すでに、ろれつの回らなくなったその口から、最後の力をふりしぼって言葉を吐きだしはじめた。
太賀「な、な、な、なまみの...生身の...に、に、に、人間だから...い、い、痛けりゃ...わ、わめきもする....」
大番長「それで?」
太賀「す、す、すると...愛お嬢さまが…そ、その..お、お優しい心とやらを...い、痛めなさる…..叫びなさる...」
大番長「だから?」
太賀「おれの悲鳴が聞こえねえだけ遠くへ、彼女をひきはなしてもらおう!」
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大番長も、早乙女愛も、人形のように呆然としている...
手下の連中までムチ打つ手を止めていた。
この、凄惨な修羅場全体が、厳粛な空気に包まれたようであった。
大番長はしばらく一点を見つめていたが、その手からベルトがすべり落ちた。
極限の恐怖と苦痛を前にすれば泣き叫び、ひざまづき、ひれ伏す、それが人間というもの
ーーそれをイヤというほど思い知らされてきた大番長にとって、この太賀誠の姿は大番長の信念体系をこなごなに打ち砕くのに十分であった。同時に大番長の氷のごとき人間不信の心にも確かな亀裂を入れたに違いない。
たしか中世の思想家の言葉だったと思うが、
「権力によって、身はしたがえられているが心をしたがわせることはできない」
といった意味のものであったと記憶している。
太賀誠は、腕力においては完膚なきまでに打ち砕かれ、敗北した。
しかし、その精神、その生きざま、その魂、そして、その本質において太賀誠は、
まさしく完膚なきまでに、勝利したのである!
忘れてならないのは、かりに、ここで太賀誠が大番長の心に一撃を与えることができずにあっけなく殺されてしまったとしても、勝利だということなのである。
なぜか?
それは、太賀誠の身体は破壊されても、太賀誠の“心”が、外なる権力、暴力に最後まで屈服しなかったからである。
この地球上で人間の尊厳を侵し続ける、いかなる権威、権力、暴力、金力、も太賀誠を従わせることはできない。
たとえ、CIAとKGBが襲ってこようとも、全世界の軍隊を総動員しようとも、核爆弾で攻めようとも、たった一人の大賀誠を服従させることは絶対にできない。
なぜか?それは、太賀誠が性格的にめちゃくちゃ気が強いからでもグレて荒れ狂い自分を捨てているからでもない。
ではなぜ何者も彼を服従させられないのか、その謎を解くカギが次のシーンにある。
太賀誠は自らの部屋の壁に貼ったボクサーのカシアス・クレー(モハメド・アリ)の写真に語りかける。
「カシアス・クレー。あんたはリングにかけちゃケンカの天才だった。だがよ、でっかすぎる相手に挑戦しちまった。ベトナム戦争行きを拒否してアメリカって国家に…。
そのため王座を取り上げられての長い空白期間があんたをボクサーとして、もう弦の切れた、音を出さねえギターに変えた…それでもあんたはジョージ・フォアマンっていう若い怪物に挑戦状をたたきつけた。誰が見ても勝ち目のねえケンカ状を!
だからよ…だからこそあんたにゃおれの部屋をかざる資格がある!」
この場面からわかるように、太賀誠が何者にも服従しない理由、
それは、太賀誠が、『権力に服従しない』という確固たる、《信念》を持って生きているからなのだ!
これが本当の強さだ!
劇画「愛と誠」は
〈人間の尊厳〉
という人類普遍のテーマを、誇りのほかにはなにもない太賀誠という1人の男の
《信念》
として謳い上げた劇画とみることも可能だ。
誰だったか、「虚構でしか表現できない真実がある」と言ったが、「愛と誠」は
暴力でしか表現できない精神性
とでもいえよう。
人は「信念」や「理念」がなくなると利害損得でしか生きていけなくなる。
そうなると、言うべきことや正しいと思うことがあっても立場の強い、上の人間には言えなくなってしまう。
なぜなら、得より損をする可能性のほうが高いからだ。
しかし、そういう生き方をしていると、人はしだいにうっぷんがたまり、そのうっぷんを自分よりも弱い立場の人に吐き出してしまう。
これが今の日本社会の姿ではないのか?
イジメやパワハラやDVなどの遠因もここにあると私は思う。
私は校内暴力全盛期に「愛と誠」に出会った。
ああ、本当の強さとはこういうことだったのか...と目からうろこが落ちた。
それ以来、自分より強い相手にはシッポを巻いて逃げるくせに、自分より弱そうな相手にはめっぽう強く出たりイジメたりする連中を見るたびに私は「太賀誠に学べ!男として恥ずかしくないのか!
男なら到底かなわない相手と戦え!と心で叫んできた。
ある男が、筋トレに励み格闘技を習い、必死の努力の末、たいていの男に勝てるようになったあかつきに、男は初めて男としての自信がついた気になるのだろうか?
あるいはもっと言えば、世界最強の男になったあかつきには?
だが、悲しいかな、それはまったく本質ではない。
結局はその男が、相対すると足が震えて逃げ出したくなるような強大な相手を前にしたとき、そのときにどうか?―――なのだ。
その男の本質が、生きざまが、あらわになるのだ!
その絶体絶命のときに、自らの恐怖と無力感に打ち克って戦った瞬間に、男は初めて男になる。
結果として、物理的に勝とうが負けようがそんなことはどうでもいいのだ。
今こそ日本の男たちに「愛と誠」を読んで《真の強さ》を学んで欲しい。
そうしたら、この国も少しは変わるだろう。
少なくとも男の恥っさらしである「弱いものイジメ」は減るはずだ。
最後に余談…
太賀誠の存在はフィクションである。
やはり、フィクションの世界だからこそ可能なのであり、現実にはこういう生き方は不可能なのだろうか?
私は、今回、この記事を書く中で、《拷問による死刑》という暴力・権力による、死ぬより苦しい究極の地獄の苦痛にも屈しなかった『本当に強い人』たちが歴史上に実在したかどうかを様々な文献や友人に聞いたりして調べてみることにした。
その結果、「本当に強い人たち」がわずかではあるが実在していた事がわかった!
古い順から紹介すると、
古代ローマ時代のキリスト教徒である女性アポローニア。
鎌倉時代の仏教の農民信徒である神四郎、弥五郎、弥六郎。
室町時代のキリスト教徒である中浦ジュリアン。
昭和初期の共産党員である「蟹工船」の小林多喜二。
同じく昭和初期の仏教信徒である牧口常三郎。
ナチスと戦ったキリスト教徒であるフランツ・イェーガーシュテッター。
同じくナチスと戦った教育者であるアドルフ・ライヒヴァイン。
李氏朝鮮時代のキリスト教徒であるペトロ申大輔。
これらの人たちに共通するのは、イズムや宗教こそ違うものの、拷問にも屈せず
「自らの信念に」殉じた
ということである。
現実に存在した『フィクションではない人たち』だ!
こんな人たちが存在したこと自体が私にとって驚愕だった。
知識の少ない私にはわからないが、もっともっと沢山の無名の《殉教者》たちが存在していたに違いない。
人間はここまで強くなれるのか...
『人間なんて結局、金や暴力には簡単に屈する』と痛感していた、私の人間不信の心にも小さな、本当になんミクロンかのわずかな亀裂が入ったような気がする。