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3つの大陸の出会うところ、クレタ島

35年前、太陽が海から昇るとき、私の目は、仰向けに横たわった巨人の、明け方の霧の中でのみ見える熱を見つめていました。F/Bクノッソス号に乗って、私は始めてクレタ島に到着しようとしていたのです。その後そこで15ヶ月間を過ごすことになっていました。私の心の、特別な場所にある15ヶ月間です。

当時、若者だった私が巨人の頭「ユフタス山」を見ているうち、太陽の最初の光が霧を散らし、その下にあるヘラクリオン市街が見えてきました。
「眠っているゼウスだよ」
と、私の隣で手すりによりかかっていた紳士が言いました。
「誰がですか?」
と私が言うと
「ほら、君が見ている、巨人だよ!」
「どうして分かったのですか・・・?」
言いかけながら私は彼のほうを振り向きました。
「先生!」
私は叫びました。その人は高校時代に好きだった先生だったのです。
「そりゃ、お前のちっぽけな脳みそで考えることなんてお見通しさ」
と先生は言いました。
先生は私にとって、学校時代のもっとも好ましい思い出であり、文学と歴史の師であり、そしてこんにちに至るまで、私は彼を思い出すたび永遠の感謝の念を抱きます。彼は教室で、ギリシャ人としての彼の愛とプライド、読書、そして考え、答えを求める技の価値について私に伝えてくださったのですから。
彼自身クレタ人で、病気で手術を受けた後の休息期間のために帰省するところでした。

「ゼウスがクレタ島で生まれたということを知っていたかね?」
私は知っていました。ゼウスの誕生の神話は、私の子供時代の最大の悪夢でした。私はいつも、兄たちに脅かされていたのです。 彼らが求めていることをしなかったり欲しがっているものをあげたりしなかったら、ゼウスの父親の「クロノス」がやってきて私を食ってしまうぞ、と。
「クロノスは生まれたばかりの赤ん坊を食べてしまうという習慣があったから、妻のリアは最後の赤ん坊を救うためにクレタ島にやってきて、ディクタ山の高いところにある洞窟でゼウスを生んだ。彼はアマルシアと呼ばれた野ヤギの乳で育てられ、『クレテス』と呼ばれた地元の戦士の部族がその槍を盾に打ちつけて幼子ゼウスの鳴き声をごまかしたので、父親にはそれが聞こえなかった」
と彼は続けました。


まもなく、私は最初のヨーロッパ文明であるミノア文明が4500年前に栄えた土地に、昔の先生と並んで立っていました。
わずかばかりの距離を連れだって歩いて、すでに開店していた小さなカフェに行きました。 明るく暖かい朝でしたが、戸外の椅子とテーブルが朝露で濡れていたので、私たちは店の中に座らなければなりませんでした。
先生はギリシャコーヒーを頼み、私は「ディクタモン」というクレタ島のお茶と、クレタ島のヨーグルトと蜂蜜を頼みました。
窓から、旧港にそびえ立つベネチア要塞が見えました。ベネチアによる島占領(1204~1669年)の、永遠の名残です。先生はまたしても私の考えを見抜きました。
「そう、クレタ島は東地中海において非常に重要な位置にある。3つの大陸が交わるところだ。 だからそこの支配は常に多くの戦争の原因となってきた。ミノア時代が衰退したあと(紀元前2600~1100年)、クレタ島はギリシャ本土から船でやってきたドーリア人に征服された(紀元前1100~500年)。彼らはクレタ島に、スパルタにあったのと同じ形態の政府を打ち立てた。古典時代(紀元前500~323年)、ヘレニズムおよびローマ時代(紀元前323~紀元330年)には、クレタ島は特に重要な役割を果たしていない。
紀元330年、クレタ島は東ローマ帝国(ビザンチン帝国)の一部となった。ビザンチン時代は2つの部分に分けられる。330年から、アラブの征服によって中断した826年までが第1期。アラブ占領は961年まで続いた。ビザンチン時代の第2期は、ベネチア時代の前までだ。1669年には、21年に及ぶ包囲攻撃の後、クレタ島はオスマントルコの支配下に陥ちた。
と私は言いました。
「そうだな。だが、しばらくここに滞在するなら、それを勉強して欲しいと思うよ。クレタ島の歴史を知ることは、クレタ人を理解することだから」
近くのバスステーションまで歩きながら、私は勉強すると先生に約束しました。

その後の何週間も、何ヶ月間も、私はこの素晴らしいところについて学び、学べば学ぶほど、クレタの偉大な人々をさらに理解し、愛するようになりました。
しかし、クレタのように大きく複雑な主題に、一編の短いエッセーで結論を出すのは無理です。しばらくかかるでしょうが、またもっと詳しく、歴史、人々、風習、そして土地についてお話しすることになるでしょう。クレタは無限なのです、そこの人々の歓待の精神が無限であるように。


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