HSPである私の行動心理
HSP(ハイリー・センシティブ・パーソン)という言葉を聞いて、人はどんな人を思い浮かべるのだろうか?
あくまで自己診断だが、私はHSPだ。
今では、だいぶ広く知れ渡っている言葉のようだが、簡単に言えば、「とても繊細な人」を表すカテゴリーと言えるだろうか。気質であって障害とも違う。
私の場合は、人混み、音、匂い、痛み、目に見えない「人の空気」に敏感なようだ。子供の頃は今よりもっと刺激に弱く、学校に行くのが苦痛で不登校になったこともある。そして、普通の人より、喜びや悲しみに対する感じ方が強いように思う。敏感だからこそ疲れやすい。心を回復するために、一人でいる時間がないとストレスを感じてしまう。
HSPという言葉に出会う前は、傷つきやすい自分自身を、弱い人間だと思っていた。神経質な自分を嫌いだったこともある。人に神経質だと思われたくないから、神経質でないフリをすることもあった。
だが、この言葉に出会ってからは、「人と違っていてもいいんだ」と自分を少し肯定できるようになったように思う。だいぶ「自分」を分かってきたつもりだが、瞬間的な判断に、今でもHSPを実感することがある。
ある寒い日のことだ。
「ココアだね?」
職場近くのカフェのマスターが、お店に入った瞬間の私にそう語りかけた。
私が働く塾は、コロナ禍でやむを得ず「zoom授業」をしなければならなくなっていた。突然の動きに、私自身も対応に追われていた。そして、少し考え疲れてしまい、職場を出てカフェに入ったのだ。
普段、私は、隣りのコンビニのコーヒーを飲んでいる。だが少し甘いものが飲みたい時は、通りを渡ったカフェに行く。その日は、疲れた頭をリラックスさせたくて、甘いものが飲みたかった。
マスターは、私がココアをよくオーダーするのを、覚えていてくれたのだろう。いつの間にか私の職場も分かっていて、「今、大変でしょう?」と、話してくれる。
息子からの情報では、「いつものね!」とお客の立場から最初に注文するのは、失礼なのだそうだ。店主から「いつものですか?」と聞かれて初めて、自分が常連客として認められたことになる。そして、それから「いつものね!」を使い始めていいとのことだ。
それが本当なのかは分からないが、きっと店主に対するリスペクトの気持ちの表れなのだろう。
私は、その日「いつものね!」と言われたのと同じわけだから、「いつものを……」とオーダーしていいことになる。
だがその日の私は、違っていたのだ。本当は、甘いけれど、たまにはココアではないものを飲もうかな? と考えて店に入ったのだ。
こういう時に、私のHSP気質が発動されてしまう。
マスターは私を気遣ってくれて、「ココアね?」と言ってくれた。だから、その心は傷つけたくないと考える。マスターに恥をかかせたくはない。きっと否定したって恥だなんて思わないはずだ、と後では分かるのだが、私がその瞬間で出した答えは、
「はい、ココアをお願いします」
だった。何となく欲しいものを逃したようで、心がモヤモヤした。そんな私の心は知らず、マスターは「チョコレートソースをサービスするけど、かけようか?」と、さらなるサービスまでしてくれた。そして、常連さんにいつもサービスをするシナモンクッキーまで私に手渡してくれた。
人生で、どれだけ「ココア」を選んできたことだろう? いつも相手ありきで相手を一番先に考え、自分の思いは伝えずに大切なものを失ってきたことが何度もある。「瞬間」に弱い私は、自分を引いてしまうことがなかなかやめられないのだ。
以前、とても好きだった人に「気になる人がいるんだ……」と言われたことがあった。「なぜ、私と会っていて、そんなことを言うのだろう?」「いつから?」聞きたいことが、山ほど心に湧きあがった。
それなのに、彼が幸せならば……そう瞬間的に思って、私は、物分かりのいい大人を演じてしまったことがある。そして、あとに引けなくなった。とても大切だった人なのに、なぜ相手に自分の気持ちをぶつけず、手放してしまったのだろう。
心のままに「私がオーダーしたいもの」を選んでいたら、私の人生はどうなっただろうか? と思うことが何度かある。
息子にカフェでのココアの話をしたら、笑っていた。息子なら、もっと上手にマスターと会話をしながら、欲しいものを手に入れられる気がする。きっとこういうことが重なって、HSPは生きにくいと言われるのだろう。
瞬間的に自分を引いてしまう、生き方が下手な「自分」に気づいた、ひと時だった。
まずは、小さな一歩からだ。
何か行動を起こすと決めたら、まずは自分の気持ちを曲げないでみよう。
そして、次こそは「ココアでないもの」を、ゲットしてみたい。