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ショートショート「パンと魔法の港町」


港町の朝はいつも、甲高い海鳥の鳴き声と、潮の香りを含んだ風で始まる。この町には様々な種族が住んでおり、その中には小さな羽を持った鳥人もいれば、水かきのついた両手両足で海を泳ぎ回る半魚人もいる。人魚が浜辺で歌う姿を見かけることもあり、他の多様な種族との交流が自然に行われている。この港町は、種族や文化の違いが混じり合う不思議な場所だ。

町の外れ、急な坂道を上がった先にある小さなパン屋「リュカのパン工房」は、いつも朝早くから温かい香りを放っている。店主のリュカは人間の青年で、かつては各地を巡る旅のパン職人だった。いくつもの町でパンを焼いてきたが、この港町の人々と海の豊かな恵みに魅せられ、しばらく住み着くことにしたのだ。

リュカの仕事場は少し狭いが、魔力炉を改造したオーブンと特製の発酵棚があり、彼の探究心と腕前が存分に発揮できるよう工夫されている。店先には古びた看板が掛かっていて、そこには羽根を広げた鳥の絵とともに「ようこそ、リュカのパン工房へ!」と柔らかな文字が描かれていた。

ある朝、リュカが店を開けようと戸を拭いていると、常連の少年カンナがやってきた。カンナは鳥人の子どもで、頭からすっと伸びる小さな羽が愛らしい。しかし、彼は生まれつき翼が弱く、同族の仲間が当たり前のように空を舞うのを、いつも指をくわえて見ているのだ。

「リュカさん、おはよう。新作のパンはある?」
「おはよう、カンナ。今日はトマトとバジルを混ぜこんだ特製の小型パンがあるよ。焼き上がりたてで、まだあったかいんだ」
「わぁ、おいしそう。でもね、実は今日はパンとは別のお願いがあって……」

カンナはもじもじと視線を落としながら言った。いつもの天真爛漫さとは違う、少し思いつめたような顔をしている。リュカは「なんだろう」とカンナの目を覗き込み、そのまま店のカウンターへ誘った。

「実は、飛べるようになるパンって作れないかな?」
カンナの言葉は突飛なようでいて、彼の切実さをありありと伝えていた。彼が生まれてから一度もまともに飛んだことがないのをリュカは知っている。小さな体と頼りない翼は、空を舞うには力不足。でも、だからこそ、どうにかしてあげたいとリュカは思った。

「うーん。正直言って、そんなに都合のいいパンが簡単にできるかはわからない。でも、やってみる価値はあるよね」
そう言ってリュカは真剣な表情になる。パンを通して誰かに笑顔になってほしい、それが彼の作り手としての願いだ。

まずリュカは、町の雑貨屋に立ち寄り、珍しい食材を扱う店主に声をかけた。店主は色とりどりの瓶や袋に入ったハーブやスパイスを並べており、その中には「発酵キノコ」や「叫びマンドラゴラの粉末」など、名前からして怪しげなものばかりがあった。

「叫びマンドラゴラの粉末はパンに混ぜると発酵が早くなるが、食べると少しピリつくでゴザルよ」
「うーん、これだけだと翼が強くなるわけじゃなさそうだね」
リュカは一つひとつ品を確かめては首をかしげる。試してみる価値はあるが、カンナの翼を根本的に変えられるかは微妙だった。

次にリュカは、人魚がよく集まる防波堤に足を運んだ。そこでは浅瀬に浮かぶ人魚たちが、美しい声で鼻歌を歌っている。リュカの姿を見つけた一人の人魚がひらりと手をあげた。

「ねえリュカ、何か探し物?」
「うん、実はね、飛べなくなった翼を元気にするパンを作りたくて……何かヒントになる食材はないかな」
「ふふ、それなら“海藻の酵母”なんてどう? 海底に生える特別な海藻を原料にしているの。パンがふわっと軽くなって、まるで海の泡みたいに浮かぶかもよ」
「それは面白そうだ!」

リュカはすぐにその酵母を譲ってもらい、店に戻って試作品を作り始めた。しかし、完成したパンをかじってみると、舌にほんのり海の香りはするものの、それだけ。確かにフワフワで美味しいが、カンナの翼をどうにかしてくれるほどの効果はなさそうだった。

そんな試行錯誤を続けるうちに、旅の剣士がある噂を持ち込んできた。旅先の山奥に、傷ついた鳥人の翼を治癒したとされる“風羽草(かざはそう)”が自生しているという。その草を煎じた薬を飲むと、翼が再び大きく伸びるのだとか。にわかには信じがたいが、わずかな可能性にかけてリュカは意を決した。

「まさかパンのために山まで登ることになるなんてね」
リュカは身支度を整え、少し高い山を目指して歩き続けた。道中、魔物除けの鈴を腰に下げながら、急な崖をいくつも超える。ようやくたどり着いた高地には風が吹き荒れ、岩陰には青い光をまとった植物が密かに揺れている。
「これが、風羽草……!」

リュカが摘み取ると、仄かな冷気が指先を伝う。葉の表面に刻まれた紋様は小さな羽根模様に見えた。これぞカンナのための材料と信じ、リュカは大事にその草を抱えて帰路につく。

数日後、風羽草を練りこんだパン生地は、神秘的な色合いを帯び、焼き上がると金色の羽根飾りのような模様が表面に浮かび上がった。オーブンを開けた瞬間、店中に爽やかで清冽な香りが広がる。

「すごい……まるで風の匂いみたい」
リュカが感嘆の声をあげると、ちょうどそこにやってきたカンナが目を丸くした。
「これが……飛べるようになるパン?」
「約束どおり、作ってみたよ。食べてごらん」

カンナは緊張した面持ちでパンを両手に取り、かじりつく。まろやかな温かさと、清々しい刺激が同時に広がり、まるで体内に風が流れ込んできたようだった。すると彼の肩から伸びる小さな羽根がピクピクと震え始める。

町のみんなが息を呑んで見守るなか、カンナはほんの少しだけ宙に浮いた。足が床から離れ、ふわりと風が舞う。たった数秒のことだったが、初めての空中体験にカンナの胸は高鳴る。
「わあ……飛べた、僕、飛べたよ!」

しかし、それはほんの短い間だけ。そのあとはフワッと浮く程度で、すぐに羽ばたきが止まってしまった。大きく羽が再生するわけではなく、彼の翼は相変わらず小さいままだ。それでも、その数秒間で味わった風の感触は、カンナにとって生まれて初めての飛翔だった。

カンナは目を潤ませてリュカに抱きつく。
「ありがとう、リュカさん! 完全に飛べなくてもいいんだ。ちょっとでも空を感じられたなんて、すごく嬉しい!」
リュカはその姿を見て、肩の力がふっと抜けるような安堵を覚えた。苦労して風羽草を手に入れた甲斐があったというものだ。

夕暮れが近づくと、港町はオレンジ色の光に包まれ、海面に沈む陽がキラキラと反射する。カンナは日の入り前の風のなか、もう一度パンを頬張ると、ささやかに羽ばたきながら「また浮いた!」と大喜びしている。その様子を見守るリュカにも、なんとも言えない幸福感が広がった。

翌日、噂を聞きつけた別の鳥人たちが「魔法のパン」を求めて店を訪ねてきたが、風羽草の効果はそこまで万能ではないらしく、人によってはまったく変化が見られないこともあった。それでも、パンの味そのものは評判がよく、ちょっとしたブームになって店は大忙し。人魚たちも面白がって買い求め、行商に持って行く者まで現れた。
「完全に飛べなくても、気持ちが前向きになれば、それも立派な“羽ばたき”かもしれないね」
リュカは笑いながら、そう言って生地をこね続ける。

実際のところ“風羽草”には、翼を蘇らせるような劇的な効能はなかったらしい。翼を強化する伝説は、単なる噂に尾ひれがついたものだったのだ。けれど、人の心を軽くする程度の魔法は確かに込められていた。パンを食べたカンナは「またもっと高く飛べるはずだ」と、以前よりも力強く羽根を振っている。それを見て周囲の仲間たちも「できることからやってみよう」と、なんだか明るい気分になっていた。

どんなに小さな羽ばたきでも、空に向かって一歩を踏み出すことには変わりない。リュカの小さなパン工房では、今日も香ばしい香りがあふれ、いろんな種族がパンを求めて立ち寄っては笑顔をこぼしていく。パン作りの音と、にぎやかな会話の声が交じり合いながら、港町の新しい一日が静かに始まっていった。

海風が吹き抜ける町の空には、いつかカンナが飛ぶであろう姿が、ほんのりと浮かんで見えるようだった。



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みちパン
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