#123_齋藤喜博を「視」る

古本屋から届いた「齋藤喜博の仕事」
A3のアルバム。
ものすごいボリューム。
齋藤喜博の仕事 〜 の在庫検索結果 / 日本の古本屋 (kosho.or.jp)

齋藤喜博は群馬県玉村町生まれ、群馬県育ち。
41歳で島小(佐波郡島小学校/2016年閉校)の校長になると、その手腕を発揮して子どもたちと先生を生き生きと蘇らせていく。

この教育は11年に及び、「島小教育」として教育史に残る、子どもたちの表現力を育てる教育へと発展していく。

この写真集で強烈に残るのは、やはり「授業」のページだ。
考えを深め追究しようとする、子どもたちの眼差しが印象的だ。
自分の考えを突っ込まれて「うーん・・・」と唸る顔。
突破口が見つかって「わかった!」と目を輝かせる子。
真剣に一方を見つめる眼差し。
どれも目の輝きが違う。
学びに真剣に向き合う子どもの姿がそこにあった。

ここにはまた、職員同士が研鑽する様子や、親たちと交流する姿も収められていた。

学校を元気にするために、齋藤喜博はまず、教師研修に力を注いだそうだ。
齋藤の情熱に心動かされた教師は、次第に研修に熱を入れていったという。
夏休みに毎年、宿泊研修なるものが行われていたことも驚きである。
やはりこのような日々の努力の積み重ねでしか、道は拓かれないのであろう。

すぐれた教師は必ず表現力が豊かである。自分の内面から出る豊かな動作とか表情とか声とかで子どもに働きかけ、子どもに深く考えさせていることが多い。発問するにしても説明するにしても、そこには豊かな内容がありリズムがある。手の表情などでも多くを語っているし、朗読などでも様々のものを子どもに伝えている。
また、子どもの朗読とか発言とかを、さまざまに拡大したり否定したりして云いかえをしてやり、その表現によって子どもに考えさせ、子どもの思考や表現を変えていくこともしている。

本文より抜粋(p.32)

自分に足りない一つはここである気がした。
自分自身の解放と表現。
子どもたちに表現力を求めるのであれば、教師は範であるべきだ。
自分にできないことを教師が求めてはいけない。

すぐれた教師にこういうことができるのは、その教師が人間として解放されており、豊かなものを持っているからである。それとともに、授業とか子どもとかのなかに、自分を完全に入れてしまっているからである。

同上

齋藤は島小で「組織学習」なるものもデザインしていた。
組織学習は「個人学習」「組織学習」「一斉学習」「整理学習」の4つから成る。
これらは教材によって、または教師のカリキュラムデザインによって、時数も内容も異なったようであるが、最も重要視されていたのは「組織学習」だったそうだ。

「組織学習」は、自分一人の学習(個人学習)を、学級の仲間や教師と繋げながら、拡大したり深化したり、変更したりしていく学習である。中心は一人にあるが、部分的にであっても他の人間と交流しながら自分の学習を深めていく。この学習によって、学級全体の学習が組織されていくようである。

これが実施されていた写真は、昭和33年だったという。
この年は道徳が設立され、学習指導要領が改訂され、まだ教育が混沌としていた時代である。
そのような時代の中で、個別最適な学びと協働的な学びが既に展開されていたことに驚きを隠せなかった。

ここからの写真は、子ども主体の授業そのものが映し出されていた。

このような教育が、県内で行われていたことという事実を知り、感動で胸が震えた。

この境地に達することができる教育がしたい。
そう、切に思う。
齋藤喜博、もっと追っていきたい。

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