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人の孤独を埋めるのは、愛されることじゃなくて愛することだよ

思い返せば、上手に他人を愛せたためしがない。

というより、わかりやすい愛情表現が不得意だ。
例えば、何でもないときに恋人に「好きだよ」と囁いてみたり、愛らしくだだをこねて甘えてみたりが、できない。

正直に言えば、恥ずかしいのだ。世間の目は大して問題ではない。相手の中の真面目な自分像を崩すのが恥ずかしい。その甘い態度を本性と受け取られたくない。相手に普段とは違う愛らしい姿を見せ、愛の前にへりくだるのが悔しい。

自分のことは表情がころころと変わる、おしゃべりで明るいタイプだと認識している。しかし本心では、人に頼ることが苦手で理性的。プライドの高さと長女気質に由来する、頑固で可愛げのない性格。何より、「愛情表現」もとい「愛すること」が苦手だ。

人は、わかりやすく愛してくれる人を好きになる。頼られると、「彼女を幸せにできている」という達成感を満たせるから。逆に、愛情表現が少なければ自信を失くすし、壁を感じて、自分ばかり好きなのではないかという疑念、触れられるのが嫌なのではないかという不安を煽る。

思えば、そもそもぬいぐるみや小さい子供、小動物に対して昔から愛着を持てなかった。目に映るものはすべてが「事実」であり「情報」で、そこに「手に入れたい」「抱きしめたい」という気持ちが湧くことはなかった。あるのは「そこにある」という情報だけであり、根本的に興味がないのだ。

そんな私でも、恋をすることはある。自分にないところ持っている人は魅力的に映るし、下心もある。ただ、愛を形にするのが下手なだけで。

ケーキが二切れあれば、大きい方を差し出す。傘を分け合えば右肩が濡れていようと構わない。相手より少しだけ早く起きて、音を立てないように昨日の片付けをする。貰ったものは大切にするし、いつも必ず身に着けている。

これを愛と呼ばずしてなんと呼ぼうか。私にだって愛情くらいあるのだ。ただ、気持ちよく眠るあなたを起こさないように、忍び足で、生活に愛を添えている。私はそういうささやかな時間に幸せを感じる。見返りを求めず相手のために動くことで満たされる。そうしたいと自然に思える人に出会えたことを幸運だとも思う。

しかし、私のことを「好き」だと言った人は、抱きしめた人はみんな、私の前から去っていった。私から突き放した人もいる。彼らが望む関係は、私があげるささやかな愛がつなぎとめるには、脆く、また私たちも若すぎた。わかりやすい愛情表現が少ないことに、寂しいという感情を抱くのはいたって当たり前で、想像もつく。でも、少し子どもっぽいな、とも、思う。

「人の孤独を埋めるのは、愛されることじゃなくて、愛することだよ」

ドラマ「大豆田とわ子と3人の元夫」​で、ふと聞こえてきたこのセリフ。
うっかり刺さってしまって、愛することが下手な自分を振り返ると、これまでの人生で別れを告げてきた彼らの顔が思い浮かんだ。彼らは、私を愛することで満たされることはあったのだろうか。彼らの「寂しい」という言葉は、愛されていないという思い込みからか、果たして私のことを愛していなかったからなのか。

人が愛情を注げるキャパシティは、限られている。それは恋人にだけ向けられるべきものではなく、たとえば仲間だったり、家族だったり、推しや仕事、趣味、勉強…生活のすべて。自分が自分らしくいられる場所に、人は愛情を注ぐのだとして、それが孤独を埋めるのだとしたら、私はもう既に十分に満たされているのだと思う。「好き」の言葉も、抱擁もそれには適わない。
その感情や言動は、大きな愛情と信頼のもとにうまれた副次的なものでしかないのだから。本当に価値のあるものは、ささやかで見えにくいものなのだから。



                            

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