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【流浪の月】恋愛でも友情でも無いつながり
僕は今日、自分が作った作品を見せに行った際に、もっと伝えたいものがあってもいいのでは無いかとアドバイスを受けた。実際に、僕はずっと所謂テーマを探し求めてはいるが、見つけられずにいる。
その反面、原因も何となく分かっている。シンプルにインプット不足だと思う。アニメは比較的によく見るが、映画や書籍に関しては年間通して、平均1.2作品程度しか見れていない。
去年の年末頃から、言語化の練習を兼ねてこのnoteをつけ始めたが、書き出してからはもっと人の文章に触れたいと思った。そういう経緯で僕は最寄り駅のTSUTAYAに向かった。
予め欲しいと思っていた本は売り切れていて、予約はしたが、熱がある内に読みたいと思い、30分近く店内を歩き見渡していた。迷っている中、一つの本に目が留まった。緑の装丁に「流浪の月」というタイトルが書かれたシンプルな見た目の本だ。
表紙を開き、あらすじを少し読んだ後、購入を決めた。始めに父親がいなくなり、母親がいなくなるという導入のあらすじで、パッと見ジャンルがどこに属するかは分からなかったが、自分のファーストインプレッションを信じて家に帰った。
帰ってすぐさま、一気に最後まで読み終えた。もし、この作品を読む予定の方はここからネタバレを含むので、お気をつけください。
ざっくりまとめると、周りから見ると一風変わっているが幸せに暮らしている家族の娘の視点で物語が進み、父親と母親がいなくなり、預けられた伯母の家では、その家の息子から嫌がらせを受け、9歳の娘と19歳の大学生が2ヶ月生活を共にし、ある日2人で動物園に行った際に、大学生は誘拐の罪で捕まり、顔や実名がさらされた娘も共に険しい人生を進んでいく話です。
報道後は15年の時が過ぎた所から話が展開していくのですが、印象に残った部分だけまとめていきます。
普通と普通のぶつけ合い
事あるごとに同棲している彼氏(亮)からDVを受けていた娘(更紗)が夜逃げをし、その腹いせに亮が過去の事件を掘り返すような情報を週刊誌に流します。
本編を読んでいると更紗に感情移入して、亮は勝手に結婚や子作り、実家の跡継ぎを決め、自分の家族に報告し、納得いかないと暴力を振るう最低な男です。そんな抑圧や拘束から逃れるために更紗は夜逃げを決行します。
お互いに自分がする事に許可などいらないという正義を振りかざし、自分の普通を主張する場面があります。普通なんて言葉は、あくまで主観でしかなく、なんて便利で理不尽な言葉なんだろうと思いました。
相手がこうあるべきだとか、自分がこうしたいという、感情的な行動を皆が同じ普通という言葉で括っている事を不思議に思いました。
物語の善悪で語ると、完全に亮の方が悪い行いをしていますが、更紗も自分本位で行動をしていたので、問い詰められた際に言い返せない場面がありました。道徳的な正しい行いかどうかと、普通であるかどうかはイコールでは無いのだと思います。
恋愛でも友情でもない、つながり
女児性愛者とストックホルム症候群の悲しい物語として、物語の世間一般では見られていました。でも、実際は自身の成長が止まっている事にコンプレックスを感じて、それを落ち着ける為に性的な目的は無く、女子小学生と接していた青年と行き場の無い自分に居場所を作ってくれた優しさに惹かれた女性の話でした。
性的な欲求が互いに無くても、一緒にいたいと思えるような関係性で、友達でも恋人でも無い、今の日本語で一言では表せない関係性が悲しい物語の中に一筋の希望的要素となっていました。
世の中では、その逆の性的欲求のみで一緒に暮らし、そのまま世間体を気にして惰性で結婚している人々も少なくないと思います。それ故に、離婚や裁判沙汰など問題に繋がっているケースが多いんだと思います。
一つ前の話題とも繋がりますが、曖昧で理不尽な「普通」という概念が歪みを作っている要因なのでは無いかと思います。
本当の優しさについて
本編の中で、優しさを描写する場面がいくつかあります。言いたいことが言い辛いから察して、言わなくて良いよという「優しさ」、正社員として働く為に、週刊誌の報道に対して弁明をしようという提案をしてくれる「優しさ」、自分がやりたい事を一緒の空間で楽しんでくれる「優しさ」がある中で更紗が優しいと感じたのは最後の文(19歳の大学生)が自分のやりたい事に寄り添ってくれたという部分だけでした。
優しさと言っても、一般的にこうしたら良いというマニュアルがある訳では無いし、その人の事をいかに理解をしているかどうかが決め手になるのでは無いかと思います。
親切でやってくれて、その人が悪い人では無いと理解はしていても、受け手は迷惑と感じてしまったり、人は完全に分かり合えないとしても、相手を理解しようとする姿勢が本当の優しさに繋がるのかもしれません。