社会における切実な問題解決の全体像を考えるために ~『お金のむこうに人がいる』(田内学著)をもとに~

自分自身の、自力では解決できない問題を解決するには、それを解決してくれる誰か別の人間が存在しなければならない。自力を鍛えればよいではないか、と言うかもしれないが、自力では鍛えられない自力、という問題を解決するにはやはり、それを解決してくれる誰か別の人間が存在しなければならない。

この社会に生きる全ての人間にとって、自力では解決できない自分自身の、(とりわけ放置し得ない)問題を解決してくれる他者が存在する社会が、自分が生きていく、あるいは善く生きていくための必須条件だとすると、社会全体の目指すべき方向性は、一人ひとりが互いにとってそのような他者でありえるような育ち方、学び方、働き方、生き方、社会のあり方を構想し、実現することということになる。

これをマクロな観点から指標化して政策目標とすることはそう簡単ではないが、さしあたり社会全体の(少なくとも個々人にとって抜き差しならない部類の)「問題解決」の種類、量、質が十分足りているか、という点に注目すべきであろう。

さらに、この問題の大きな特徴は、それが再帰的であるということである。例えば、高齢化社会になって介護人材が必要、というだけではなく、「介護人材」となる人々自身が抱える問題は誰が解決してくれるのか、ということも同じように問わなければならない。この問いは原理的には、ではその解決してくれる人材の問題は誰が解決してくれるのか、と無限に続く。

貨幣経済においてはこの「問題を抱えた人」と「問題を解決してくれる人」とのマッチングが貨幣というメディアによって実現されているからこそ、「十分高額な収入が必要」「十分安価な商品やサービスが必要」ということになる。

これら全てを少数のソーシャルデザイナーが事前に予見して設計することは不可能なので、現状ではこの問題は、貨幣をメディアとした、個々人の「このままでは自分の問題を解決してくれる他人がいないので職業や働き方や生き方を変えよう」という判断に分散的に委ねられている。

しかし、単に個々人の自律的、分散的判断に委ねるだけでは、前述の「政策目標」はいつまでたっても達成されない。個々人の判断の集合体が「社会全体における十分な種類、量、質の「問題解決」」をもたらすというのはほとんど奇跡に近い偶然であり、それを単に期待するのはあまりにも楽観的と言わざるをえない。

そこで一応の歯止めになっているのが人権思想に根ざした近代の法制度、そして徴税に基づく行政サービスに他ならないのだが、それらは単に境界条件を設定しているに過ぎず、社会システムの内部構造を適切に形成するためには全く不十分と言わざるをえない。

つまるところ、あくまでも社会の切実な問題の「総体」に注目し、これが「十分な種類、量、質で」解決されているかということ自体を問い続けなければならないということになる。
このことを実現するためにまず考えなければならないのが、この社会において、どのようにすれば個々人が何らかの形で他者の抱えている問題を何らかの形で解決できるようになるのか、そのためにどのように個々人をエンパワーすればよいのか、ということである。

そうすると例えば「イノベーション」は、社会の中の有限の構成員が、他者が必要としている問題解決をより良く行えるような「新しい働く仕組み」を作り上げること、と言い換えることが出来る。つまり、同じコスト・労働量でより優れた問題解決を実現する、あるいはより少ないコスト・労働量で同じ問題解決を実現する、ということである。

イノベーションの代表例というとiPhoneである。発売当時iPhoneを設計、製作、販売していた個々の労働者は、決してものすごく特別な能力を持った人々ではなかった。ソニーやパナソニック製品に携わる労働者と比べても大差なかったであろう。

違うのは、個々の労働者が持つ「問題解決能力」をこれまでとは異なる新しい発想で組み合わせて、顧客に全く新しい問題解決を提案したところである。この、顧客に対する新しい問題解決を、労働者の問題解決能力の新しい組み合わせで実現することが「イノベーション」であるということになる。

それによって、これまでと同じ労働者の問題解決能力を元に、人々のより多くの(切実な)問題が解決されるようになれば人々はより幸福になり社会はより豊かになる。前述の政策目標達成に貢献することになる。

イノベーションとは「新結合」であると言われるが、これは素材や技術、機構、機能の結合ではなく、本質的にはこの「労働者の問題解決能力の結合」を刷新すること、であると考えることができよう。そしてこの「結合」は単なる寄せ集めではなく結果としての問題解決のあり方が劇的に変化するもの、いわば「非線形結合」である。

さて、「これまでと同じ労働者の問題解決能力」で良いのなら、なぜ時代によって新しい種類の人材が求められるようになるのだろうか。

iPhoneというイノベーションが要求する「労働者の問題解決能力」の総体、パッケージは、初代製品の初期ロットを出荷する時点までは問題なく労働市場から調達できていたであろう。

しかしこのイノベーションによる問題解決の提案が社会に受け入れられると、iPhoneの生産量が増えるばかりか、他のプレイヤーからも基本的には同じだがやや異なる問題解決ニーズに応える製品(=Androidスマートフォン)が開発されたり、ひいては社会の様々なセクターで同様のコンセプトの製品やサービスが開発されるようになる(=スマート〇〇)。

そうすると、そのような「スマート〇〇」に求められる「労働者の問題解決能力のパッケージ」は、必ずしもその時点の労働市場における労働者の問題解決能力の分布と同じものではないため、問題解決能力の過不足が生じる。

つまり、イノベーションによって新たに提案された問題解決が社会に受け入れられ普及する段階になってはじめて、それを実現するための新たな「問題解決能力需要」が安定的に生じ、それに応えるための人材育成が必要となる、ということである。

これは裏返せば、イノベーションによる、今後受け入れられそうな新しい問題解決の提案が前提とする「労働者の問題解決能力のパッケージ」を分析することで、将来必要とされる問題解決能力、ひいてはそれを備えた人材の需要、そのための教育需要をある程度予測できる可能性が示唆されているということになる。

だとすると教育はそもそもイノベーションの帰結であり、その一端を担うものであるということができる。何百年も変わらず続いている教育内容もあるではないか、と思うかもしれないが、それもまた人類が歴史上達成してきた様々なイノベーション(=道具や文字の発明等)を引き受けるものであったと捉えるべきであろう。

さて、ここまでの話はある意味当たり前であり、何も新しいことを言っているわけではない。ただ単に労働、貨幣、イノベーション、教育といった概念を自分なりに整理してきただけとも言える。それでは、このような整理には一体どのような意味があるのだろうか。

労働とは他者に価値を提供すること、価値とは問題解決のこと。貨幣とは、それによる商品やサービスの購入を通じて他者に自身の問題を解決してもらう権利のこと。つまり他者の労働がなければ貨幣には意味がない。これらのことは『お金のむこうに人がいる』にわかりやすく書かれているが、マルクスの「労働価値説」で唱えられていることにも重なる。

前述の議論はこの枠組みに基づいて問題解決、労働、価値、貨幣、問題解決能力、イノベーション、教育といった概念を整理したものである。そしてその中で、社会全体としての政策目標を「社会全体の問題解決の種類、量、質が十分であること」、問題解決を「個々の労働者の問題解決能力の非線形結合」、イノベーションを「新しい非線形結合による新しい問題解決の提案」、教育を「問題解決能力の新しい非線形結合の要求するポートフォリオに応える営み」と定義し直した。

これによって、イノベーションはそもそも何のために行うのか、その際にどのような教育が必要となるのか、といった本質的な問いにより具体的な(=実行可能な)形で答えることができる。

また、部分最適化に陥ること無く、「個々の機能の前提を構成する機能、の前提を構成する機能・・・」を遡ることを通じて、これら全体の織りなすエコシステムの持続可能性を保ちながら施策を立案することができる。

さらには、このように抽象的な形で機能分解することによって、その目的であれば別の手段もありうるのではないか、という機能的等価物、代替案を構想することを可能にする。そしてその発展形として、およそ存在しうる(=すべての機能が両立可能な)経済社会のパターンを絞り込むことができる。

貨幣とは他者に問題解決を依頼する権利、という考え方を敷衍するならば、問題を自己解決できる、あるいは家族や仲間に解決してもらえる部分が大きい人はそれほど貨幣を必要としない、ということになる。

同様に、従事すること自体によって自分自身の様々な問題が解決されるような仕事に就いている人は、「もし衣食住など自身の必須の問題が別途解決されているのであれば」それほど報酬(=貨幣=他者に問題解決を依頼する権利)を必要としない可能性がある。ただし「必須の問題が別途解決されている」という条件が満たされていない場合は、いわゆる「やりがい搾取」として問題が前景化する。

一方一般に、行うべき問題解決がどのようなものであるかという「定義」、そしてその問題の解決が十分なされているかどうかという「評価」は常に不完全なものであり、通常はそれによって生じる「取り残された問題」を、労働者個人の「興味」や「意欲」「責任感」といった動機によって生み出される「問題解決の余剰」が埋めている。

しかし報酬を高くするとこれらの種類の動機が小さい人々、つまり他者に自身の問題解決を依頼する権利を多く得られることのみを動機とする人が増えるので、かえって問題解決が滞ることがままある。

これは報酬の高さが本質的な問題なのではなく、問題解決の定義と評価が不完全であることに起因する問題であると言える。ただし原則的には報酬を上げること自体は、新たに「より多くの解決したい問題を抱えた労働者」の参入可能性を開くので、問題解決の質を向上させることに寄与する。

一般に興味・意欲・責任感の充足という労働による自身の問題の解決は、定義と評価の枠を越えた他者の問題解決の質的向上という副産物をもたらすが、高報酬下においては「より多くの労働者の参入から生まれる競争と選抜による質的向上効果」と「自己解決動機を持たない労働者の割合増加による質的低下効果」が打ち消し合うため、問題解決の定義と評価を適切に行うことがより重要になる、と言える。

さて、社会においてはしばしば「〇〇人材を増やす必要がある」といったことが言われるが、それらの人々が〇〇人材になる前に従事していた仕事が果たしていた問題解決は誰が担うのだろうか。

例えば問題Bの解決需要に応えるために、問題Aの解決に従事していた人々が転職した場合、問題Aは誰がどう解決するのか。それはAに関する問題解決生産性を高めることで達成されるのかもしれないし、そもそもAは解決するに値しない、「切実ではない」問題と再認識されるかもしれない。

いずれにせよそこで問題Aの解決を依頼していた人々の予算が「浮く」わけだが、それが転職して問題Bに従事するようになった人々に何らかの経路を通じて以前と同様の水準で支払われ続けることによってはじめて、転職した人々自身が抱えている問題が以前と同様の水準で解決され続ける。

これは結局、依頼者に、問題Aではなく問題Bを自分ごととして考えてもらうことを意味する。これは一体いかにして可能なのだろうか。あるいはこういった種類の問題は個々人の依頼者ではなく国が税金を元に一括して担うべきなのだろうか。

ところで納税とは、国民が国家に公共的な問題の解決を依頼するということである。そうすると結局国民が様々な問題を「公共的」であり、「自分たちが解決を依頼すべきもの」だと認識するかどうかが鍵ということになる。

別の側面から見ると納税は、その分国民が「他の問題解決を控える」ということでもある。徴税は、その分納税者の「(貨幣による権利を行使して)他者に問題解決を依頼する機会」を奪うのである。

一方、問題を自身で解決したり、友人や家族、共同体の構成員に「非金銭的に」解決してもらったりすることでも、「(貨幣による権利を行使して)他者に問題解決を依頼する」ことを控えることはできる。自己解決や仲間による解決は、貨幣による他者への問題解決の依頼と機能的に等価であるといえる。

そうすると自助/共助/公助という区分については、自助/共助はいずれも非金銭的、公助は税を介するという点で金銭的だが公共的である、と整理され、さらに別途「市場からの調達」といった区分を設けたほうが分かりやすい。そしてどの区分にどの機能を持たせるかは、国家が決定するというよりは国民が志向すべきものであろう。

だとすると納税は、国民の公共性への意思の現れでなければならない。どのような価値規範に基づき、どのような公共的問題解決を我々が望むか、ということによって税の種類や額を決める必要がある。

社会全体の問題解決能力が一定だとすると、どの問題解決にそれを投入するか(=いかに切実な問題を見極めるか)、それを個々人の問題解決能力のどのような非線形結合によって実現するか(=いかに問題解決生産性を高めるか)が、社会全体の問題解決度(=幸福度)を決定する。

「切実な問題」を解決する労働を「エッセンシャルワーク」、「問題解決生産性を高める営為」を「イノベーション」と呼ぶとすると、エッセンシャルワークの「問題解決力」を高めるイノベーション(≠労働強化・効率化)を最優先で行っていかないと社会の未来はない、ということになる。

iPhoneでは人が死ぬのは防げない。

ただしここで先鋭的な対立をもたらすのが、何が切実な問題と言えるのか、という判断である。これは個々人の価値選択に由来するものである。そしてもう一つの重要な論点が、そのような個々人の価値選択を、人々の抱える様々な問題がそれぞれ切実かどうかという判断に結びつけるためには、どのような社会的意思決定の仕組みが適切なのか、という問いである。この2つの問題にどう応えるかによって、社会のあり方が分岐する。

いずれにせよそういった、社会全体に分布する個々人の各種の問題解決能力の総体が、どのような非線形結合によってどの程度の問題解決生産性をもって、社会における切実な問題解決を担っているのか、担いきれていない部分はどこなのかを見出すような「ダッシュボード」を、この社会を運営する立場の人々は注視していなければならない。

そしてその部分についてはどのような問題解決能力の再配置と非線形結合の組み直しによって問題解決力を高めていけばよいのか、そのためにどの部分にどの程度の成果をもたらすイノベーションが必要なのかを構想する必要がある。

概念を整理すると、社会には「解決に他者の力が必要な切実な問題」の総体があり、社会全体の「問題解決力」の総体があり、個々人の「問題解決能力」の総体がある。問題解決能力を問題解決力に変換するのが個々のビジネスや行政のしくみであり、その問題解決生産性を高めるのが「イノベーション」(≠効率化:高コストの問題解決の切り捨てや労働強化ではない、の意)であると言える。

社会における問題解決能力の総体は有限なので、人々の幸福のためにはそれをできるだけ切実な問題に集中させる必要があるが、その手段として市場だけでは永遠に解決にたどり着かず、一方で貨幣の再配分だけでは行政を肥大化させるだけに終わり、社会の問題解決力の総体は増加しない。労働の移動も個人の自由を侵害する。

だとすると我々に残された手段は、「切実な問題についての問題解決生産性を高めるための」イノベーションに知恵を集中させることである。そのために必要なのは、人々を「切実な問題の解決生産性のためのイノベーション」(≠効率化)に動機付ける価値観の提示。これこそがリーダーの役割である。

さて、問題解決を担う責任を負うべきは市場(を構成する個人)か行政か、という伝統的対立がある。しかし行政に依存するにも結局徴税と公共事業を経由した市場機能が必要となる。そうすると全てを市場化し、市場化されないものは見ないことにするしかない。限界を脱するにはこの対立の「外部」を見ることが重要である。

実は「市場の外部」は、市場そのものにとってすら必要不可欠である。外部がなければ価値提案も価値選択も無くなるので市場は動かないし、そもそも市場が存在する意味も消滅する。

このようなマクロな議論だけでなく、個々のプレイヤーにとっても、市場の外部での問題解決手段を持たないプレイヤーは全ての問題解決を市場から調達するしかないので意思決定の自由度が著しく制約され、結局市場でも敗北する。

ではなぜ市場の外部はやせ細ってきたのか、それどころか多くの人々が「市場のほうがマシ」と考えてこの流れが加速されるようになってきたのか。

身も蓋もない言い方をすれば、市場の外部もまた、多くの人にとっては酷かった、もっぱら一部の人間の問題解決を担わされるばかりで自身の問題解決は蔑ろにされ続けてきた、というのが一つの理由。そして外部は市場に常に「利便性」の誘惑を受けてきたというのがもう一つの理由である。

利便性と引き換えに差し出すものの価値はその時点では明示的にはわからない。では前もって言語化して認識していれば守れたのかというと、そもそも言語化が行われる契機はそれに市場的価値が見出されることであることが多いし、その上、言語化自体がその価値を市場取引可能なものにしてしまう。ここには深刻なジレンマが存在する。

これは「教育」という、内容や方法が言語化された営みの限界にも通じる。

問題解決の非対称性に苛まれ、利便性に誘惑され、意識化=言語化=取引可能化のジレンマを内包する中で、いかにして「市場の外部」の価値を守り続けることが可能か。このことが、市場、行政、価値の関係を考える上でもっとも重要な問いの一つになる。

一方、前述のように「貨幣=他者に問題解決を依頼する権利」だとすると、「報酬=他者の問題を解決したことの反映」であると言える。高収入職を選ぶのは自身の問題解決能力をより多くの他者の問題解決に結びつける知恵を持つ組織を選ぶということだから、(価格政策が適切ならば)それはむしろ社会貢献とすら言えることになる。裏返すと「そのようにみなせるように」価格政策を制御することこそが重要となる。

こう言ってしまうと当たり前のことのように聞こえるが、このことは結局、「他者の抱える切実な問題をより多く解決する問題解決力に対してより高い報酬が支払われるような価格政策」を取る(ことを誘導するような制度を構築する)べきである、という結論を導き出す。

切実な問題なのだからむしろ安価にすべきというのも一つの考え方だが、(支払いを誰が担うかはともかく)高額にすることで「より高い問題解決能力を持ちながら、一方で自らも他者によるより多くの問題解決を必要とする者」を動員することができるようになる、という点にも注目しなければならない。

まとめると、以下の三点が重要課題となるであろう。

1.人々を「切実な問題の解決生産性のためのイノベーション」(≠効率化)に動機付ける価値観をいかに提示するか。

2.問題解決の非対称性に苛まれ、利便性に誘惑され、意識化=言語化=取引可能化のジレンマを内包する中で、いかにして「市場の外部」の価値を守り続けることが可能か。

3.「より高い問題解決能力を持ちながら、一方で自らも他者によるより多くの問題解決を必要とする者」を「社会における切実な問題解決」に動員することができるような適切な価格政策とはどのようなものか。


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