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沈む世界に住まうこと、あるいは『天気の子』から「不穏な熱帯』まで──12月8日開催!里見龍樹×篠原雅武「〈人新世〉はどこへゆく?」イベント“直前”レポート

12月8日(木)にゲンロンカフェで開催するトークイベント、里見龍樹×篠原雅武「〈人新世〉はどこへゆく?──人類学と環境哲学の現在地」。イベント企画のきっかけとなったのは、里見龍樹さんの新刊『不穏な熱帯──人間〈以前〉と〈以後〉の人類学』(河出書房新社)の刊行でした。

南太平洋・ソロモン諸島から〈人新世〉を考える人類学者による衝撃作の魅力とその背景にあるものを、イベント企画者がゆるりと解説!イベントの予習に、ぜひご覧ください。

イベントは19時から五反田、ゲンロンカフェで開催。当日は里見さんがフィールドワーク中に撮影した現地の写真などもご覧いただく予定です。ぜひ現地観覧がおススメです!会場観覧チケットの申し込みはこちらから。

ちなみに本イベントの前日12月7日(水)に行われる「近藤祉秋 × 吉川浩満 なぜ犬に話しかけてはいけないのか?──人間以外の人類学をめぐって」もまた、〈人新世〉がテーマとなる、本イベントと対になるイベントです。こちらは放送のみとなりますが、ぜひあわせてお楽しみください。


ちょうど最近、新海誠監督の『天気の子』を見返していた。祈りによって晴天をもたらす少女と、異常気象の続く東京、そして水没する街……。同時代の問題として、自然災害や気候変動があきらかに強く意識されたこの映画は、その終わりごろに、ひとつのキーワードを忍び込ませていた。主人公が手にとった一冊のパンフレット。そこには「アントロポセン」と書かれている。
人新世=anthropocene。『天気の子』が公開された2019年頃、日本でもこの言葉がさかんに耳にされるようになっていた。

〈人新世〉という概念じたいは、一般的には、大気化学者パウル・クルッツェンによって2000年に提案され、激しい論争を引き起こしながら次第に受け入れられていったものと説明される。
人間たち(anthropos)の活動が自然環境に大きな影響を与えている状況を指し示すべく、更新世(Pleistocene)や完新世(Holocene)に続く地質年代の名称として、〈人新世〉という言葉は生みだされた。つまり、私たちはすでに地質学的なスケールにおいても捉えられるほどの、きわめて大きな変化を地球環境に引き起こしているという認識が、〈人新世〉には込められている。
日本では、2017年12月に雑誌『現代思想』(青土社)が「特集=人新世」を組み、翌2018年には『人新世とは何か』(青土社)や『人新世の哲学』(人文書院)などが相次いで出版された。そして2020年には、斎藤幸平さんが『人新世の「資本論」』(集英社新書)を刊行し、これが40万部をこえるベストセラーとなったことで、〈人新世〉はさらなるポピュラリティを得ることになった。

いまや〈人新世〉は、地質年代の区分をめぐる専門的な議論の対象であるにとどまらず、むしろ、環境危機を乗り越えるための実践的な語彙となっている。じじつ、斎藤幸平さんの『人新世の「資本論」』の最終章では「気候正義」や「食料主権」を掲げる政治運動が取り上げられる。
環境危機の原因は資本主義システムにある。それゆえ、経済成長を前提とする現状の環境政策では、人新世の破局を食い止めることができていない。だからこそ、政治運動をつうじて社会のありかたを転換し、資本主義を克服しなければならないのだ──。
このような主張は、きわめて合理的で明快だ。だからこそ広い読者を得ているのだろうし、ぼくたちも真剣に受けとめる必要がある。とはいえ、別な道筋を探ってみることも可能だろう。そしてそのための手がかりは、〈人新世〉における「人間」と「自然」の関係をどのように捉えるかということにかかっている。

たとえば斎藤さんは、マルクスの「自然的物質代謝」論を参照しながら、環境危機を乗り越えるためには、自然を収奪する資本主義を乗り越え、人間と自然のあるべき関係性を取り戻すことが必要だと主張されている。そこでは、人間側の問題である資本主義や社会のありかたを変革すれば、おのずから自然側の問題も解決されていくということが前提されているようだ。
けれども、果たして人間と自然はそれほど調整可能な関係を取り持っているのだろうか。一方が変化すれば他方も変化していくという関係性は、どこまで成り立つのだろうか。そうではない、人間と自然の「ままならない関係性」についても考えてみたいと思った。

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12月8日(木)のゲンロンカフェイベントに登壇される里見龍樹さんは、南太平洋・ソロモン諸島でフィールドワークを続けてきた人類学者。今月、2冊めの単著となる『不穏な熱帯──人間〈以前〉と〈以後〉の人類学』を河出書房新社より刊行された。

里見さんが調査しているのは、ソロモン諸島・マライタ島の海岸部に住む海の民「アシ」の村。その名の通り、アシの人びとは「海」のなかに暮らしている。遠浅の海中にサンゴをつみあげて島をつくり、家を建て、カヌーで漕ぎ出しては漁をしたり、海岸に畑をつくってイモを育てたりして生活している。里見さんの『不穏な熱帯』は、そんな村に滞在して、アシの人びとの伝統的な生活のありかたを見聞きした記録に満ちた民族誌だ。

海のなかに生きるアシの人びとの暮らしは面白い。まったく経験したことのない遠い世界の話。里見さんが書き記すマライタ島やアシの村でのエピソードには、ぐいと惹き込まれるような魅力がつまっている。だが、それだけではない。
フィールドワークをもとにして書かれた『不穏な熱帯』は、少し専門的な表現をすれば、「民族誌」と呼ばれるジャンルの本だ。辞書を引けば、たとえば「特定の民族集団の文化・社会・環境など生きている世界についての具体的な記述」(『デジタル大辞泉』)という説明がなされている。実際、『不穏な熱帯』には、マライタ島滞在時に里見さんがつけていた日記がたくさん引用されている。人類学者たちは「民族誌」を書くことによって、調査地で経験した具体的なことがらから、ある集団の「文化」や「社会」のありかたを描き出そうと試み続けてきた
けれども、そのような民族誌のありかたにはいくつもの批判も寄せられてきた。たとえば民族誌と植民地主義の結びつきが批判されたり、さらには、「文化を書く」という行為そのもの、「異文化」を表象するというありかたそのものが根底的に批判されたりしている。それを踏まえて、ここ数十年の──とりわけ2000年代以降の──人類学者たちは、「異文化の研究」という伝統的な人類学のありかたを脱した、「新しい人類学」を模索しつづけているのである。
そして里見さんの民族誌も、一見すると典型的な「異文化」を描き出そうとしているようにみえて、じつは伝統的な民族誌の他者表象を乗り越えようとする、「新しい人類学」の実践のひとつにほかならない。

海の民が暮らす人工島

日本にいると名前を耳にすることさえ珍しい、遠い国のソロモン諸島。けれども『不穏な熱帯』を手に取ると、その「遠さ」はたちどころに消え去ってしまう。
2011年7月、里見さんは調査のためにアシの村を訪れている。そのときに出会ったのは、「ツナミ」におびえる海の民たちだった。そして里見さんはアシの人びとに、「ツナミ」の被害を受けて日本から逃れてきた避難者として扱われていた。

これは単に、日本とソロモン諸島は同じ太平洋の島国だから、一つの地震と津波がふたつの地域に同時に影響を与えた、というだけのことではない。一見すると、「異世界」であり「他者」にほかならない日本人と海の民は、「ツナミ」の経験によってともに揺さぶられ、その生活を問い直されることになる。
そこでは、まさしく異文化性をつくりだしている「海に住まう」というアシの伝統的な生活様式こそが、災害によりインフラストラクチャーの脆弱性に直面した日本の「文明的」な生活と同様に、持続可能性の危機に瀕していたのである。言い換えれば、これまでは「他者」として描きだす根拠となってきた要素そのものが、「ツナミ」以後は、むしろ同一性を見いだす根拠へと変わったのだ。
『不穏な熱帯』における「ツナミ」は、他者の文化を書こうとする伝統的な人類学の自明性が失われたいま、それでもなお民族誌を書くという行為がいかにありえるかを浮かび上がらせる、示唆的な出来事なのである。そしてそこに『不穏な熱帯』が「新しい人類学」の実践であるということもあらわれている。

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ところで、問題は〈人新世〉である。『不穏な熱帯』は人新世の問題にも非常に深くかかわっているということに触れておきたい。
人新世の気候変動にともなって生じる問題のひとつとして、「海面上昇」がよく知られている。海の水位が上昇することで標高の低い地域が水没してしまう。南太平洋の島国であるソロモン諸島は、まさしく海面上昇の影響を大きく受ける地域のひとつである。
海の民が暮らしている人工島も、とうぜん海面上昇の影響を受けている。2011年以降、アシの人びとは「ツナミ」だけでなく海面上昇によってもその生活を脅かされていた。

海中に沈みつつある村の埠頭

けれども、アシの人びとはどうやら異なることを考えている。里見さんは海面上昇に直面しているアシの村で、「岩が死ぬことで島々や埠頭が沈みつつある」と語る人びとに出会う。
「岩が死ぬ」。それは、グローバルな気候変動の帰結として科学的に語られる「海面上昇」とは、まったく別なことを語っている。そこでは、島が沈みつつあることは、海面上昇のせいではなく、岩が「死ぬ」からにほかならない。
だが、岩が死ぬとは、一体どういうことなのか。

ここで「新しい人類学」の議論に立ち返らなければならない。およそ従来の人類学的な枠組みでは、「岩が死ぬ」というアシの人びとの語りは、独自な文化や信仰のあらわれとして、あるいは自然をめぐる解釈の一つとして、多文化主義的に理解されてきただろう。
けれども2000年代のいわゆる「存在論的転回」以降、人類学者たちは、このような語りを、「文化」ではなく「自然」の問題として考えるようになっている。すなわち、アシの人びとが「岩が死ぬ」と口にするのは、かれらが自然をそのように理解する文化を持っているからではなく、アシの自然において、岩は生きたり死んだりするものであるから、なのだ。
『不穏な熱帯』は、岩が死んだり育ったりする、アシの「自然」を真剣に受け止めようとする。そこでは、〈人新世〉をめぐる語りが無意識に前提としがちな、「自然/文化」や「自然/人工」の区別が消え去ってゆく。

しかし、「岩が死ぬ」ことによって島が沈んでいくとき、そこに住まう者たちは一体どうすればよいのだろうか。〈人新世〉のその先に考えなければならない問題は、ここにひとつ見いだせるのではないか。
人間と自然の調整可能な関係性を想定し、前者をより良くすることで後者の問題解決につながるという発想は、たしかに合理的で明快だ。けれども、そうではない「ままならない関係」も自然と人間のあいだにはあり得るのではないかと先に書いた。そこで念頭に置いていたのは、まさしく、岩が死ぬことで海に沈んでいく島々のことだった。
そのような「自然」から〈人新世〉を考えるとき、わたしたちはいかなる思考を立ち上げることができるのか──。今回のイベントの「〈人新世〉はどこへゆく?」というタイトルには、このような関心が含まれている。

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最後に、『不穏な熱帯』で論じられていることを、今回のイベントにより引き付けて紹介しておきたい。

「岩が死ぬことで島々や埠頭が沈みつつある」というアシの人びとの発言は、海面上昇や「ツナミ」によって、海の民たちのなかに「もはや海に住まうことはできない」という感覚が広がっていることをあらわしていると里見さんは指摘している。たほう、〈人新世〉の破局が論じられるとき、そこで念頭に置かれているのも、「もはや地球に住まうことができなくなるのではないか」という不安だろう。
『不穏な熱帯』で紹介されるアシたちの不安と〈人新世〉的な不安は、ともに「住まう」ことの不安である。そして、まさしく「住まう」ことについて哲学的な議論を続けてきたのが、今回のイベントの対談相手、篠原雅武さんにほかならない。

人新世の哲学』(人文書院、2018年)の著者である篠原さんは、それに先立ち、都市や空間、そして生活について、いくつか著作を出されている。『公共空間の政治理論』(人文書院、2007年)や『空間のために』(以文社、2011年)、『生きられたニュータウン』(青土社、2015年)が篠原さんの都市・空間論の代表作だ。
篠原さんは〈人新世〉をテーマにした書物のひとつとして、2020年に『「人間以後」の哲学』(講談社選書メチエ)を上梓された。そこでは、「人間は、人間から離れた世界に住みつく」というグレアム・ハーマンのアイデアを手がかりとして、「人間以後」の世界を生きるということが真摯に問い直されている

そもそも、里見さんの1冊めの著作のタイトルは『「海に住まうこと」の民族誌』(風響社、2017年)だった。博士論文がもとになったその書物では、海の民の「移住」や「婚姻」、「葬制」、「生業」などを通じて、「住まう」ことが検討されていた。それからおよそ6年が経ち、「海に住まうこと」はいかに論じ直され、展開しているのか。2冊めの民族誌である『不穏な熱帯』と、「住まう」ことをめぐる篠原さんの議論はどのように響き合うのだろう。期待は尽きない。

〈人新世〉の世界に「住まう」ということはどういうことか。その思考に、マライタ島の「沈んでいく島」に住まう人びととその「自然」はどのような議論の可能性を与えてくれるのか。そして、「死ぬ岩」とそこに住まうことを真剣に受けとめた先に、〈人新世〉の議論はどこへゆくのか。
12月8日(木)、人類学と環境哲学の現在地がゲンロンカフェにあらわれる。里見龍樹さんと篠原雅武さん、ふたりの議論は必見だ!

(植田将暉)


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