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小説家になる。/ワタシの一部 #7

書きたいことがある、書きたいことを思い通りに書いた、程度では駄目。書きたいことを突き詰めた結果、思い通りにならない、自分でも扱い切れない怪物が生れてしまった、と困り果てて下さい。

田中慎弥 先生より「第49回 すばる文学賞」に寄せたお言葉

 この言葉は、私が小説を書くときいつも根本にある、忘れられないものです。
 「自分でも扱い切れない怪物」​──その境地に辿り着いた先生方には、一体世界はどんな風に見えているのでしょうか。どこかの鬼殺しのように透き通った世界が見えるのか。世界は美しいのか、はたまた荒んで見えるのか。私はそのことに思いを馳せるだけで困り果ててしまいます。さあ、どうしたものか。

 私の将来の夢は、小説家です。

 物語を読むのが好き。文字を書くのが好き。そして何よりも言葉が好き。
 「言葉」という語彙自体が、日本語の美しさたるやを物語っているとは思いませんか。葉のように瑞々しく生まれ、生命を目一杯輝かせ、やがて枯れて塵となる。それがまた、新たな言葉を生み出す礎となる──日本語という由来の分からない言語だからこそ、底が計り知れないと思います。
 特に小説には、口語では伝わらないような言葉に溢れています。「こんなに素敵なのに勿体ない!」と思ってしまうくらいに、小説には隠れた美しい言葉がたくさん潜んでいるのです。

 そんな私ですが、自分の書く小説はまだ稚拙であると感じることばかり。小説のために、ネガティブな心象も脳内で文に起こし、糧にして、表現力を磨いてきたはずなのに。小説のために、と思ってさまざまな場所を見て回っても、この指の先からは陳腐な文章の羅列しか出てこないのです。小説を書いていると、直ぐに恋人を病床に伏させる小説家の気持ちがよく分かります。
(物語の起伏を付ける上で、衝撃的な出来事_____死にまつわることが1番分かりやすいのです。)

 しかし、そんな私の文章でも『凄く"上手"だ』と評価する人がいます。たとえば、同級生であったり、学校の先生であったり。私が『ちょっと文章、上手いのかも』と勘違いしてしまいそうになるくらい、言われる機会が多々あります。校内の文学賞で選ばれたことこそ、その証拠でしょう。

 では、なぜそのような評価が生まれるのでしょうか。今回は、同級生からの評価に限定して考えてみようと思います。
(教師となると、教えを乞う側と授ける側で立場の違いによって、フラットな目で評価しているとは言い難いので別個で考えます)

 単純に"上質な"読書経験がなく、小説について『好き』『嫌い』を評価する領域に達している人が多い。それが原因であるのではないでしょうか。

 インターネットが発達した現代において、誰もが自由に発信できる場所が広がっており、それは小説にも言えることです。『小説家になろう』だったり、『カクヨム』だったり、素人が表に立てるチャンスを掴めるような場所が増える。それは、今までは発掘されなかった逸材が輝ける、言わば文芸の世界の『進化』とも言えますが、私は『退化』の側面もあると考えます。

 先程私は、読書体験について『上質』であることを強調しました。すなわち、私が言いたいのは『インターネットによって上質な読書体験が奪われている』ということです。

 インターネットに投稿することで、明確な『流行り』の奔流が生まれます。『転スラ』『リゼロ』に始まるような異世界転生モノ、最強主人公モノ、悪役令嬢モノなど、必ずそこには『流行るための型』が存在しています。
 誰でも発信できる場だからこそ情報が溢れ、『型』に乗らなければ埋もれてしまいます。しかし、そこにオリジナリティは表出するのでしょうか?

 小説家になりたい、もしくは自己承認欲求を満たしたいと思うたくさんの人が、流行るためにその『型』に合わせて投稿する。それによって大きくなった小説投稿サイトは、アナログ世界に侵入する力を得ます。出版社も所詮は利益を追い求める企業であるからして、『売れる』見込みのあるものを出版することは容易に想像できるでしょう。似たような長いタイトルばかりが平積みされる書店に、あなたは何を思うでしょうか?

 こうした書店のインターネット化は、今専業小説家がほとんど居ない、成り立たないことの要因のひとつであり、人々の上質な読書体験を奪っています。

 本来読書体験とは、あてもなく書店を彷徨い、心惹かれる1冊に出会い、購入することに始まります。それを繰り返すことで、人々は本の善し悪し、好き嫌いを判断するための見聞や感性を磨くものです。これが、私の考える『上質な読書体験』です。
 しかし、本屋の目立つところに置かれている本が『流行るための型』に乗っかったもの、もっと言うと『流行りに乗っかっただけの稚拙なもの』ばかりでは、到底人々の見聞が広がるとは思えません。多種多様な本に触れ、小説家ごとの独自の世界の中で何かを感じるからこそ、感性が鋭くなり、小説に対する『好き』『嫌い』が生まれるのです。

 さて、今まで老害よろしく読書体験について持論を述べてきましたが、私は所謂『ラノベ』を読む人々を否定している訳ではありません。11巻ほどまで最強主人公モノの小説を持っているし、面白いと感じます。他の小説では出会えないような語彙に出会えるところが、特に興味深いです。
(私と同じような感想を抱いてラノベを読んでいる人は恐らく居ません。)

 しかし、それが全てであってはいけないということです。ラノベでなくとも、たとえば東野圭吾が好きだからといってそればかり読むのも良くない。これは、近年の『推し活』文化にも通づることではないかと思います。選り好みしてそればかりに触れるのはその人の見聞が狭まることになりかねないので、ここでひとつ、警鐘を鳴らしておきます。

 つまるところ、私がこの記事で言いたいのは『小説を読もう』ということです。あなたの読書体験が素晴らしいものであることを願って、記事を締めくくろうと思います。ここまで読んでいただき、ありがとうございました!


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