映画『ゴジラ-1.0/C』鑑賞
「綺麗」に過ぎる白黒映画
モノクロ化の意義とは
モノクロ化されたことで、初代ゴジラのような怖さやある種の荘厳さが付加されたものを観られるかと期待していたが、単に情報量が減って見にくく分かりにくくなってしまった印象を受けた。もしかすると、あえて画質を落とすと逆に迫力が出たかも知れない。綺麗に過ぎる白黒映画だった。
とはいえ、銀座蹂躙、四式戦車の反撃、放射能火炎と爆風、キノコ雲とゴジラの咆哮からの敷島の叫び、とどめを刺すかのような黒い雨、という一連のシークエンスは、モノクロで観ても圧巻で、物語としても映像としても見応え満点だった。
だが、結局はそれだけだった。
放射線測定器を子どもに向け、首を横にふる測定者が登場するシーンに象徴されるように、初代ゴジラは日本に対する空襲と核攻撃への鎮魂の映画だった。 モノクロ化は、初代ゴジラを強く意識してのことだろうし、本作でも、当該シーンのオマージュが出てくるが、何を訴えたかったのだろう。
『シン・ゴジラ』を越えたのか
本作は、前作『シン・ゴジラ』と比較されるし、山崎監督も比較されることについての自身の見解を示されていた。
『シン・ゴジラ』は、東日本大震災による津波被害と福島第一原子力発電所事故を物語化し省みようとする強い意図が感じられた。
同作品開始11分過ぎに、第2形態のゴジラが呑川を遡上しボートが「上流に向けて」押し流されるシーンがあったが、劇場で初めてこの場面を観た時は「こんな、津波そのまんまの描写を映画として映像化してもいいのか?」と感じた。
ヤシオリ作戦において、主人公らが放射線防護服を着用しつつ作戦を遂行する姿も、原発事故に対応する関係者の姿そのままだった。
ゴジラ映画は、その時代時代において日本の人々が感じている脅威や恐怖、後悔、懺悔といった感情をゴジラ仮託し、それを鎮める映画でもある。
『シン・ゴジラ』は、3.11のメタファーとしてゴジラを描く作りになっていた。対して、『ゴジラ-1.0』は何を物語化したのか。
『ゴジラ-1.0』では、映画の後半、旧海軍の駆逐艦と戦闘機が登場し、対ゴジラ作戦が展開されていく。エンターテイメントとしては上出来で映像は目を見張るが、「負けた戦争の怨嗟をゴジラ相手に晴らしてどうする」との感も否めない。
ゴジラは破壊者であると同時に核兵器の被害者でもある。倒すにしても、もっと大切にしてやらなくちゃ。
映像は素晴らしいが…
映像は素晴らしかっただけに、シンプルな娯楽映画「だけ」だったのが残念。敗戦直後の日本を描くなら、日本のゴジラにしかできない、日本のゴジラだからこそ扱えるテーマがあるはずで、それが観られなかったのが残念だ。
次回作を山崎監督が手がけることになったとの報道がでた。むしろ、平成VSシリーズのような娯楽に振り切った作品を観たい。アンギラスが再登場すれば、喝采を送ろう。
鑑賞日:2024年1月[劇場]
評 価:☆☆☆☆☆☆★★★★(6/10)
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