映画『シビル・ウォー アメリカ最後の日』鑑賞
一発の銃声は恐ろしく、連射音は娯楽になる
この写真を撮ったのか、彼女は
物語の最終盤、エンドクレジットで浮かび上がる写真こそが、この映画の全てを表しているように思われた。銀塩写真の現像そのままの、徐々に鮮明になる写真の正体を観て、得も言われぬ気持が渦巻いた。写真として切り取られた被写体が満面の笑顔を見せる姿は皮肉が効きすぎている。正確には、被写体のうち、一人(一体と言うべきか?)を除いて、だが。
素晴らしい演出だった。
「どの種類のアメリカ人だ?」
この映画には、物語を象徴する音が2つあった。一つがカメラのシャッター音、もう一つが銃声だった。
劇場に響く一発の銃声とともに、一人の命が尊厳も何もなく消し去られてしまう。
そのシーンは、あまりに酷く、あまりに辛く、しかも自分がアジア人であるが故に生々しく、肌感覚で恐ろしい。
憤りとか、哀しみとか、無力感とか、恐怖とか、おおよそ人が感じるであろう負の感情が一瞬で湧き出てきて、ぐっと疲弊してしまう。
一方で、物語終盤のワシントン攻防戦では、M1エイブラムスを先頭に激しい銃撃戦が繰り広げられるシーンが映し出され、それを手汗握りながら見入っている自分いた。「すごい映像だ!」と興奮しながら観ているのを自覚した。
一発の銃声には恐怖を覚え、連射音は娯楽になる。そんな2つの感情の間をたった何分かで行き来するのが一番怖いことなのかもしれない。
アジア人殺害の場面でショックを受けながらも、描かれる物語は全て他人事であり、エンターテインメントとして消費している。それは決して悪いことではない(映画なのだから)と思うが、そんな自分がいることに自覚的ではありたい。
写真(機)について
もう一つ。主人公がデジタルカメラではなく、ニコンの銀塩写真機を使っているのは何とも格好よかった。ただ、FE2を描くならフィルム交換の場面を入れてほしかった。うまく使うと、緊張感のあるシーンになったのでは?
とはいえ、冒頭に述べた通りで、なぜ主人公が銀塩写真機を使っているのかの一つの答えがエンドクレジットで出てきた時、鳥肌ものの感動を覚えた。
さらに、物語前半に主人公が発した「(その時は)私を撮る?」との疑問に対して、最後に答えを出したのは自分だった、という見事な伏線の回収。
素晴らしい展開であり、これを観られただけで劇場に足を運んだ甲斐があった。
鑑賞日:2024年10月[劇場]
評 価:☆☆☆☆☆☆☆★★★(7/10)