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人間の条件(著:ハンナ・アレント、ちくま学芸文庫)を読む - その2

第二章「公的領域と私的領域」の読解です。noteでは通常引用欄として用いる機能を、自分の理解を書き込むスペースとして活用しています。

前回はこちら



活動と社会の関係性

  • <活動的生活>のなかで、活動だけが人びとの社会を除いては考えることさえできない

    • 例えば労働という活動力は他者の存在を必要としない

    • 「活動だけが人間の排他的な特権であり、野獣も神も活動の能力を持たない。そして、活動だけが、他者の絶えざる存在に完全に依存しているのである」

アレントは第一章で<活動的生活>という用語を「労働」「仕事」「活動」の3つと定義しましたが、その内で「活動(人と人との間で行われる唯一の活動力。多数性が人間的条件)」は他者がいないと成立しないものであるということを強調し、この後で活動と社会の関係性について論じる上での導入としています。

  • 活動は共生と密接に関連しているので、アリストテレスのいう政治的動物という語は社会的動物という語に訳された

    • しかし、政治的なものを社会的なものに置き換えることで、政治に関するギリシア的理解が大きく失われた

    • 「社会的」という言葉も、元々は「ある特別な目的をもって人びとが結ぶ同盟」という政治的意味を有していた。「ヒトの社会」という概念ができてから、社会的という用語が基本的な人間の条件という一般的な意味を獲得し始めた

    • プラトンやアリストテレスは、人間が共生しているということ自体を人間的なものとは捉えず、むしろ動物的なものと捉えていた。故に基本的な人間の条件とは考えていなかった

活動は他者を必要とするため、自然と「社会」という言葉と結びついたのですが、実は「政治的なもの」と「社会的なもの」は異なり、アリストテレスが「人間は政治的動物」とした言葉の意味が失われてしまった、ということを説明しています。現代の私たちには、政治と社会の結びつきがあまりにも強いため、アレントはあえてここで両者を切り分けるような議論を展開しています。

プラトンやアリストテレスが生きた古代ギリシアの時代には、「社会」という言葉は現代の私たちが使うような意味では理解されておらず、「ある特別な目的をもって人びとが結ぶ同盟」という政治的意味が強かったと語られています。そして、現代の私達には社会=共生というイメージが強く、人間は共生性を持つと考えがちですが、その考え方も古代ギリシアでは支持されておらず、共生は動物がするもの、と捉えられていたようです。この点は後程より詳しく分析されます。

ここまででも、既に「人間はポリス的動物である」というアリストテレスの言葉が一般に解されているような意味ではないことが浮かび上がってきます。


古代ギリシアにおける「政治」の意味

  • ギリシア思想では、政治的組織を作る人間の能力は、家族を中心とする自然的な結合と異なっている。いやむしろ正面から対立している

    • 人間の共同体に現れ必要とされる全ての活動力のうち、活動(プラクシス)と言論(レクシス)だけが政治的生活と名づけたものを構成すると考えられていた。単に必要なもの、有益なものは全て厳格に除かれていた

    • この2つの人間的能力が全ての能力のうちで最高の能力であるという確信は、ソクラテス以前の思想にすでに現れていた。思考は言論よりも下位にあったが、言論と活動は同時的、同等、同格のものと見なされていた

    • 政治的活動が暴力ではなく言葉によって行われたというだけではなく、言葉が運ぶ情報や伝達とは別に「正しい瞬間に正しい言葉を見つける」ということが活動であるということも意味していた

    • ポリスにとっては言葉と説得によって全てが決定されるということであり、暴力によって人を強制すること、つまり説得ではなく命令することは人を扱う前政治的方法であり、ポリスの外部の生活に固有のもの(家庭や家族の生活に固有のもの)であった

古代ギリシアにおいて「政治的なもの」と「社会的なもの」が異なる、という点について、まず「政治的なもの」がどのように捉えられていたのかが説明されます。

ここで重要なのは、「活動(プラクシス)と言論(レクシス)だけが政治的生活と名づけたものを構成」しており、「単に必要なもの、有益なものは全て厳格に除かれていた」という指摘です。

これはつまり、生活のために働く、組織を運営するといった現代的な意味での「社会的営み」は、「政治的生活」と名付けられたものとは異なるということであり、「政治」と「社会」がいかに離れた言葉なのかということをアレントは示そうとしています。

なお、この「活動(プラクシス)」は、アレントが第一章で定義した<活動的生活>の3要素のうちの1つである「活動」と同じことを示していますが、この後の議論を追っていくと、古代ギリシアで使われていた「活動」という用語の方が狭い意味で使われていたという事かと思います。


「社会」という言葉の変遷

  • 社会という言葉の近代的理解となると事態はより一層混乱している

    • 生活の私的領域、公的領域は、それぞれ家族の領域、政治的領域の区別に対応してきた

    • 私的でもなく公的でもない社会的領域の出現は比較的新しい現象で、近代の出現と時を同じくして現れた

ここからは「政治」という言葉から離れて、「社会」という言葉に焦点が当てられます。

古代ギリシアでは、私的領域と公的領域、家族の領域とポリスの領域という2つが存在し、そのそれぞれは完全に別個だという認識だったのですが、近代になり第三の領域である「社会的領域」が現れた、という指摘がされています。

  • 公的領域と私的領域、ポリスの領域と家族の領域、共通世界にかかわる活動力と生命の維持に係わる活動力、これらの違いは自明であったが、私たちにはこの境界が曖昧になってしまっている

    • 私たちが社会と呼んでいるものは、家族の集団が経済的に組織されたものであり、その政治的な組織形態が「国民」と呼ばれている

    • 「政治経済」は本来形容矛盾である。「経済的」なものは生命と種の生存に係わるものであり、定義上非政治的な家族問題だったからだ

    • ポリスでは公的領域が重視されながらも私的領域が尊重されたのは、私的財産への敬意ではない。家を持たなければ自分自身の場所を世界の中にもつことができず、世界の問題に参加することができないからだ

公的領域と私的領域の境界が曖昧化していくこと、これが社会的領域の発生につながっているという指摘がされているパートです。

現代では「社会」と言うと「大きな家族」のようなイメージが強いのではないか、というのがアレントの考えです。それは、私的領域の拡張ということです。私的領域は、公的領域では扱われなかった「単に必要なもの、有益なもの」、つまり「経済的なもの」を扱います。それが大きな集団に拡張されると、社会が構成されるというイメージです。

公的領域の営みである「政治」は、「単に必要なもの、有益なもの」である「経済」は本来扱うことはない。故に「政治経済」という言葉は形容矛盾である、ということです。

しかし、現代の私達にはその違和感が薄れています。私的領域が拡張し、社会が構成され、その「社会」が公的なものだと考えているからです。これは、「ギリシア的なもの」が失われているということに他なりません。

  • 家族は生命と種の生存が生活を駆り立てる、必要と必然に支配される生活。一方で、ポリスの領域は自由の領域だった

    • 政治が社会を保護する手段にすぎないということはなかった。どんな社会でも、政治的権威を必要とし、正当化するのは社会のための自由であった

    • 全ての人間は必然に従属しており、他者に対して暴力を振るう資格を持ち、暴力によって生命の必然から自分自身を解放するという前政治的な行為。例えば奴隷を支配することで、自分は必然から解放される

    • 貧困や不健康は肉体や経済の必然に隷属していることになる。このため貧しい自由人は、定期的に保証された仕事よりは、日々変わる労働市場の不安定の方をむしろ好んだ。定期的に保証された仕事は、毎日自分が好む通りのことをする自由を制限するから、すでに奴隷的と感じられ、多くの家内奴隷の安易な生活よりも、むしろつらく苦痛の多い労働の方が好まれたのである

    • ポリスは平等者しかいない。つまり、誰にも支配されず、命令もされない。家族は厳格な不平等の中心であり、それは必然に隷属しているから

    • 近代になってから政治が社会の機能となったおかけで、両者の間に重大な深淵があることを認めることができなくなった。現代では公的領域と私的領域は絶えず互いの領域に流れ込んでいる

家族の生活、つまり私的領域は「必然に支配される」領域。政治の生活、つまり公的領域は「支配されない自由な」領域。こういう対比がされています。

「単に必要なもの、有益なもの」である「経済」は、なぜ公的領域から除かれていたのか。それは、「単に必要なもの、有益なもの」を追いかけるということは、「必然に支配される」からなのだということが、ここで示されます。ポリス、つまり政治領域では、何よりも「支配を受けない」「自由である」ことが絶対条件であり、自由である人たちが集まってポリスを運営していたということがわかります。

現代では、このように考えている人はおそらくほとんどいないでしょう。「政治」は「自由」の上に成り立つ、という言葉は現代では理想論にしか聞こえません。「政治」は「社会」を動かすためにあるという方が、現実的かつ肌感覚に合った表現だと思います。それだけ、古代ギリシアと現代では、使っている言葉は一緒でも、考えていることが全く異なるということです。

アレントの指摘を受けると、「人間はポリス的動物である」という有名な言葉も、単に人は共生して社会を営んでいく動物だ、という意味で解釈すると間違っているということになります。あらゆる必然から解放され、自由な状態で活動と言論を行い、「政治」を執り行う。これが「ポリス的」の本来の意味ということです。

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