人間の条件(著:ハンナ・アレント、ちくま学芸文庫)を読む - その2
第二章「公的領域と私的領域」の読解です。noteでは通常引用欄として用いる機能を、自分の理解を書き込むスペースとして活用しています。
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活動と社会の関係性
<活動的生活>のなかで、活動だけが人びとの社会を除いては考えることさえできない
例えば労働という活動力は他者の存在を必要としない
「活動だけが人間の排他的な特権であり、野獣も神も活動の能力を持たない。そして、活動だけが、他者の絶えざる存在に完全に依存しているのである」
活動は共生と密接に関連しているので、アリストテレスのいう政治的動物という語は社会的動物という語に訳された
しかし、政治的なものを社会的なものに置き換えることで、政治に関するギリシア的理解が大きく失われた
「社会的」という言葉も、元々は「ある特別な目的をもって人びとが結ぶ同盟」という政治的意味を有していた。「ヒトの社会」という概念ができてから、社会的という用語が基本的な人間の条件という一般的な意味を獲得し始めた
プラトンやアリストテレスは、人間が共生しているということ自体を人間的なものとは捉えず、むしろ動物的なものと捉えていた。故に基本的な人間の条件とは考えていなかった
古代ギリシアにおける「政治」の意味
ギリシア思想では、政治的組織を作る人間の能力は、家族を中心とする自然的な結合と異なっている。いやむしろ正面から対立している
人間の共同体に現れ必要とされる全ての活動力のうち、活動(プラクシス)と言論(レクシス)だけが政治的生活と名づけたものを構成すると考えられていた。単に必要なもの、有益なものは全て厳格に除かれていた
この2つの人間的能力が全ての能力のうちで最高の能力であるという確信は、ソクラテス以前の思想にすでに現れていた。思考は言論よりも下位にあったが、言論と活動は同時的、同等、同格のものと見なされていた
政治的活動が暴力ではなく言葉によって行われたというだけではなく、言葉が運ぶ情報や伝達とは別に「正しい瞬間に正しい言葉を見つける」ということが活動であるということも意味していた
ポリスにとっては言葉と説得によって全てが決定されるということであり、暴力によって人を強制すること、つまり説得ではなく命令することは人を扱う前政治的方法であり、ポリスの外部の生活に固有のもの(家庭や家族の生活に固有のもの)であった
「社会」という言葉の変遷
社会という言葉の近代的理解となると事態はより一層混乱している
生活の私的領域、公的領域は、それぞれ家族の領域、政治的領域の区別に対応してきた
私的でもなく公的でもない社会的領域の出現は比較的新しい現象で、近代の出現と時を同じくして現れた
公的領域と私的領域、ポリスの領域と家族の領域、共通世界にかかわる活動力と生命の維持に係わる活動力、これらの違いは自明であったが、私たちにはこの境界が曖昧になってしまっている
私たちが社会と呼んでいるものは、家族の集団が経済的に組織されたものであり、その政治的な組織形態が「国民」と呼ばれている
「政治経済」は本来形容矛盾である。「経済的」なものは生命と種の生存に係わるものであり、定義上非政治的な家族問題だったからだ
ポリスでは公的領域が重視されながらも私的領域が尊重されたのは、私的財産への敬意ではない。家を持たなければ自分自身の場所を世界の中にもつことができず、世界の問題に参加することができないからだ
家族は生命と種の生存が生活を駆り立てる、必要と必然に支配される生活。一方で、ポリスの領域は自由の領域だった
政治が社会を保護する手段にすぎないということはなかった。どんな社会でも、政治的権威を必要とし、正当化するのは社会のための自由であった
全ての人間は必然に従属しており、他者に対して暴力を振るう資格を持ち、暴力によって生命の必然から自分自身を解放するという前政治的な行為。例えば奴隷を支配することで、自分は必然から解放される
貧困や不健康は肉体や経済の必然に隷属していることになる。このため貧しい自由人は、定期的に保証された仕事よりは、日々変わる労働市場の不安定の方をむしろ好んだ。定期的に保証された仕事は、毎日自分が好む通りのことをする自由を制限するから、すでに奴隷的と感じられ、多くの家内奴隷の安易な生活よりも、むしろつらく苦痛の多い労働の方が好まれたのである
ポリスは平等者しかいない。つまり、誰にも支配されず、命令もされない。家族は厳格な不平等の中心であり、それは必然に隷属しているから
近代になってから政治が社会の機能となったおかけで、両者の間に重大な深淵があることを認めることができなくなった。現代では公的領域と私的領域は絶えず互いの領域に流れ込んでいる
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