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人間の条件(著:ハンナ・アレント、ちくま学芸文庫)を読む - その4

第二章「公的領域と私的領域」の読解続編です。noteでは通常引用欄として用いる機能を、自分の理解を書き込むスペースとして活用しています。

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公的(パブリック)という言葉が持つ意味の考察

  • 公的(パブリック)という用語の二つの意味

    • ひとつめ。公に現れるものはすべて万人によって見られ、聞かれ、可能な限り最も広く公示される。アピアランスがリアリティを形成する

      • 私的なものは、物語として語られるなどして非私人化されない限りは影のような存在にすぎない。口に出して語るとリアリティを帯びる領域に持ち出していることになる

      • 公的領域は不適切なものは繋ぎ止めておくことができない。魅力的だが不適切なものは私的領域に留まり、民族全体がそれを生活様式とすることがある

    • ふたつめ。世界そのものを意味している。ここでいう世界とは、人間の人工物で構成された世界のこと

      • 本来、世界は人々の介在者であるべきだが、人々を関係させながらも同時に分離するその力を失っていることが、大衆社会を耐え難いものにしている

      • 以前もそう感じる人がいたが、世界に取って代わるほど十分強力な絆を発見することで維持されていた(≒宗教、キリスト教)

        • キリスト教の共同体は非政治的、非公的なもの。家族関係をモデルにしていることからもはっきりと示されている

      • 世界は持続しないという過程に立つと、無世界性が政治現象として現れる。キリスト教では、人間の作った世界は持続しないという過程があった

        • そのとき、世界は消費するもの、享楽するものとして捉えられてしまうことがある

        • 世界を人々が結集する共同体にするためには、永続性が必要となる

      • 現世は潜在的に不死であると確信し、現世の枠を乗り越えない限り、いかなる政治も、共通世界も、公的領域をあり得ない

        • かつては自分の持っているもの、他者と共有しているものを自分の生命よりも永続させようと望む心があった

          • 奴隷であることが呪われたのは、自由を奪われるだけではなく無名状態にあるために、自分たちの存在の痕跡を残せない恐怖から、ということもある

        • しかし近代になって不死に対する本物の関心がほぼ完全に失われた。公的領域が失われたことの証明である

ここでは、私的領域と対比される「公的領域」の意味が考察されており、2つの定義が示されています。

1つ目は、公的であるということは他者に見られたり聞かれたりすることを意味し、そうすることでリアリティが担保されるということ。逆にいうと、私的であるということは他者から隠されているということであり、リアリティがない(≒主観から抜け出すことができない)ということを意味でしています。

2つ目は、公的領域とは世界そのものを意味しているということ。「世界」とは、我々人間が構築している共通社会、共同体というようなものを指していると思われます(ただし、アレントは本書で「社会」という言葉に特別な意味を持たせており、上で挙げた「共通社会」とはそういった特別な意味を帯びていない一般的な意味の社会です)。

世界は人間の作ったものであるから、人間が有限性のある存在である限り世界も永続しない、という考え方はあり得る。キリスト教はまさしくそういった思想を持っているとアレントは指摘しています。

一方で、公的活動を行うということは、自分の生命を超えて卓越性を示すことを企図するのであり、時代を超えてその卓越性を残していくためにはその前提として世界が永続すると考えられなければなりません。

故に、政治的活動を行うには、世界の永続性を信じていることが必要条件ということになります。


近代における公的領域の捉え方

  • 近代が公的領域に関して考えたことはアダム・スミスによって表明されている

    • 公的称賛と金銭的報酬が同じ性格を持ち、互いに代替可能なものとして彼に描かれている

    • この場合、公的称賛は共通世界を作らない。欲求に根差す、すぐに消費されるものと代替可能になってしまっているから。「金銭的報酬」の客観性が強まってしまっている

  • 金銭的報酬の客観性における唯一の基盤は、あらゆる欲求を満足させる公分母としての金銭

    • 対して、公的領域は無数の遠近法と側面が同時的に存在する場合にそのリアリティが確証される

      • その場合、共通の尺度や公分母をけっして考案することはできない

      • 共通世界は番人に共通の集会場ではあるが、各人はそれぞれ異なった場所を占めている

      • 多数の人々が様々な側面で同一のものを全く多様に見ていると、自分が知っている場合にのみ、世界のリアリティは現れる

公的という言葉を2つの観点から定義したうえで、近代において公的領域は異なる形で捉えられいるということが、アダム・スミスの考えを引きながらここで説明されています。

ポリスにおいては、公的領域で卓越性を示し、それに対する称賛を得ることに意味がありました。しかし近代以降は、そういった公的称賛すらも金銭的報酬で測られる対象に変化しているという指摘がなされています。

これはつまり、「金銭」というただ1つの軸で全てが測られてしまうという「画一性」「画一主義」の議論に収斂します。

しかし、公的領域は画一的な軸では成立しない、というのがアレントの考えです。「公的領域は無数の遠近法と側面が同時的に存在する場合にそのリアリティが確証される」と表現されていますが、つまりは他者にそれぞれの視点で多角的に見られ、聞かれることによって初めて、世界はリアリティを持つことができるからです。

公的称賛が金銭で測られるようになった(画一的な軸で測られるようになった)瞬間に、その称賛が「公的」と呼ばれようとも、公的領域は成立しない。故に、近代以降は公的領域がほぼ消滅しているということになります。

  • リアリティを保証するのは、「共通の本性」ではなく、「立場の相違や多様な遠近法の相違」にもかかわらず、全ての人がいつも同一の対象に関わっているという事実

    • 大衆社会では単一の視点に集約され、他人を見聞きすることを、他人から見聞きされることを奪われる。自分の主観的なただ1つの経験の中に閉じ込められる。こうして共通世界が終わりを告げることになる

  • 今日、他人によって保証されるリアリティが奪われているので、孤独(ロンリネス)の大衆現象が現れている

    • ローマ人は、ギリシア人と違って私的なるものを公的なるもののために犠牲にすることなく、2つの領域は共存することで存在しうると理解していた

      • しかしそれでも、ギリシアでは富の蓄積、ローマでは芸術及び科学への献身などは全て私的生活に属していた

      • そのために非常に豊かな奴隷や教養ある奴隷も存在したが、それは富があることや哲学をすることはリアリティを持っていなかったということ(私的領域に属することは変わらないため)

      • 私的生活には欠けたものがあるという考えは、キリスト教が勃興すると大いに弱められ、ほとんど消滅するまでに至った

続いて、近代では「リアリティ」が奪われている点を更に詳述しています。

まず、リアリティはどのように保証されるのかが説明されています。非常に面白いのが、リアリティは「同じ視点」ではなく、「異なる視点」から生まれるという点です。「リアリティを保証するのは、『共通の本性』ではなく、『立場の相違や多様な遠近法の相違にもかかわらず、全ての人がいつも同一の対象に関わっている』という事実」と表現されています。

言い換えれば、同じものを同じように見ている人だけが集まっていても、リアリティは形成されない。同じものを異なる視点で見ることができる人が集まってはじめて、リアリティが保証されるという考えです。

近代社会は「画一主義」な社会という話の流れですから、近代以降は「リアリティ」が奪われているということ。それにより皆が主観に閉じ込められ、孤独(ロンリネス)が大衆現象として現れている、という考察が展開されています。


「財産と富」の「公的領域と私的領域」との関係性

  • 公的領域が消滅すると私的領域も一掃されるという運命にあるのが通常だが、「私的」という言葉は財産と結びつくとその欠如的な性格を失い、公的領域一般に対する対立関係を多く失う。財産は常に政治体にとって最も重要だと考えられていた一定の特質を明らかに持っている

    • 財産と富は異なる性質のものだが、どちらも公的領域に入るための条件とされてきたことからその違いが忘れられている

    • かつて全ての文明は私有財産の神聖さに基づいていた。対して、富は私的に所有されていようと、公的に配分されていようと、かつて神聖視されたことはなかった

      • 財産は世界の特定の部分に自分の場所を占めることだけを意味した。したがって財産のというのは政治体に属すること、つまり集まって公的領域を構成した諸家族のうちの1つの長となること以上のことではなく、それ以下のことでもなかった

      • 外国人や奴隷の富は、財産の代替物ではなかった。逆に市民の家族が貧困でも、市民権を奪われることや、世界における場所を奪われることはなかった

ここでは「財産と富」が「公的領域と私的領域」を語る上で特異なポジションにあることが説明されています。

金銭や労働にあたるものは、人間が生命的な欲求を満たすために必要な活動や要素であることから、私的領域に属するものであるということがこれまでの議論の流れでした。

しかし、実は財産と富は少し事情が異なります。財産と富は、公的領域に入るための条件とされてきたからです。生命的欲求を満たす活動が公的領域のものでないとしても、人間である限り何も食べずに生きていくことは不可能です。後でも述べられることですが、生命的欲求が充足することは、公的活動の前提条件なのです。

その中でも「財産」と「富」は位置づけが異なるとされています。「財産」は「世界の一部に自分の場所を占めること」を意味しました。これはつまり公的領域に属するものであり、財産を持つ者は、「リアリティ」を形成する際に「固有の立場」から意見する者でもある、ということになります。

一方で「富」は私的領域に属するものであり、公的領域に勤しむ者が前提として必要とするものではあったかもしれませんが、「財産」の代替物ではありませんでした。


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