なぜ働いていると本が読めなくなるのか (著:三宅香帆、集英社新書)
購入時点で15万部を突破しているという今かなり売れている本。私自身は「働いて本が読めなくなる」という悩みは現状持っておらず、むしろ働くことで(金銭的な余裕ができたことや、社会を知ることにより『わかる』本が増えたことなどにより)読める本が増えたとすら思っている。そのため、この本のタイトルを見た時に「『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』という本が、なぜ書かれて、なぜ売れているのか」が気になり、購入してみた。
本書は、タイトルに掲げる問いに答えるために「日本人の労働と読書の関係性」を明治時代まで遡ってトレースし、現代人が本を読めない理由を探っていくスタイルを取っている。本書の結論をコンパクトに表現すると、次の通りだ。
本にはノイズ(他者の文脈という仕事とは関係のないもの)が含まれており、現代人はノイズを受け入れる余裕がないので、本を読めない(ノイズの少ないSNSのようなものは余裕がなくても消費できる)
なぜ現代人に余裕がないかというと、全身で働くことが前提となっているから
全身ではなく、半身で働くことで本を読む余裕ができるので、全身で働くことをやめて半身で働くべき
この結論は色々な意味で考えさせられたので、簡単に私の考えをまとめておきたい。
本にはノイズがあり、インターネットやSNSにある情報はノイズがないと言えるのか
まず1つ目の結論について、私は一定理解しつつも、完全同意には至らなかった。私は本書を読んで、要は「本にはノイズが含まれており、インターネットやSNSにある情報にはノイズが含まれていない」という構図だと理解したが、それは果たして本当だろうか。
ノイズが含まれる本は、世の中に多く存在する。それは確かだろう。一方で、ノイズが含まれない本も存在するはずだ。本書でいう「ノイズ」とは、仕事とは関係のない「他者の文脈」のことである。仕事に直接つながらない、別の世界観や考え方、コンテキストを知るという意味で使われている。
私自身も本が好きなので、本にこの意味での「ノイズ」が含まれているという感覚はよくわかる。しかし、本=ノイズありというわけではない。本を読んでいくと自分の好きな本ばかりを手に取るようになり、ノイズがどんどん失われていく(自分の持っている考えに近いものばかりを読むようになる)こともある。
そして、インターネットやSNSにある情報は、確かに自分で選んだ情報が目に入れやすく、最近はキュレーション機能が発達しているのでその傾向は強くなっていると言えるかもしれない。しかし、日々インターネットやSNSに触れていれば嫌というほど感じるように、自分の見たくない情報や、仕事とは全く関係のない「他者の文脈」がこちらの意向を無視して飛び込んでくるという面もある。最近はキュレーション機能をあえて抑えて、あえて関係のない情報を取り入れることを企図したサービスも出てきている。
こう考えると、本だけを特別視して「ノイズの含まれたもの」として扱うのは、ちょっと難しい場合があるかもしれないと思ってしまう。本好きの私としては著者の主張に寄っていきたいところだが、残念ながら時代の進歩は著しく、インターネットにもSNSにも私たちに「他者の文脈」を見せてくれるような素晴らしいコンテンツは溢れている。
私は、読書の効用は(かつては高い重要性のあった)「情報や知識を得ること」の重要性は下がり、「自己認知のアップデート」の重要性が相対的に高くなってきていると過去の記事で主張しているが、極論すれば「読書の対象」は本である必要はない、と考えている。ネットの記事やブログを読んで、まるで本を読むかのように「認知アップデート」が起こることもあるだろうと思う。
半身で働くことの意味
続いて、2つ目と3つ目の結論に関わることとして「全身で働くことが余裕のなさに繋がっているので、半身で働くべきかどうか」という点があるが、私はこの結論には基本的に賛成だ。しかし、著者の「半身で働くべき」という主張と私の主張は少し意味が異なる可能性がある。
半身で働くとはどういうことだろうか。具体的な例を挙げれば、「全身」で働いた場合には1週間に8時間×5日=40時間分の労働をしている人が、その半分の20時間/週の労働に抑えることが「半身で働く」ことにあたるだろう。こうすれば、体力や気力も毎日十分に残っているだろうし、読書や他の趣味活動を楽しむこともできる可能性が高まる。
しかし、現実的な問題として、労働時間を半分にしたら普通は給与も半分になる。年収500万円の人だったら、年収250万円になるということだ。年収が半減したら、いくら時間があってもお金がなく、本も満足に買えないし、家賃を抑えるために職場から遠くに引っ越すようなことになったら通勤時間が伸びて結局時間が無くなったりしてしまう。時間を作ったのに結局本が読めなかったら元も子もない。
ではどうするのかというと、労働時間を半分にしても給与は500万円のまま維持するしかない。それはつまり、生産性を2倍にするということに他ならない。以前、ビジネス書の名著「生産性」を取り上げた。この本の定義に従えば、生産性=得られた成果/投入した資源=アウトプット/インプット、である。今は投入資源である労働時間を減らそうとしているから、インプットを半分にしてアウトプットを維持しよう、ということを言っている。
これはつまり、成果に着目した成果主義に切り替えていこうという話である。生産性を上げれば、半身でありながら経済的な豊かさも維持できる。しかし、よく言われる通り、成果主義は残酷な面もある。生産性を上げられない人にはどうしようもないからだ。
私自身は、基本的に「仕事はプロセスを縛るのではなく、成果で縛るべき」という考えを持っているので、成果主義で判断される組織や社会は歓迎すべきだというスタンスだ。そのため、「半身で生きよう」という本書の主張に対して「そうだ、その通りだ」と思う。全身か、半身か、というプロセスに着目されることはなくなり、その結果としてどれくらいの成果が出ているのかで判断される仕組みが透けて見えるからだ。
しかしながら、この考えは本書が主張したい結論とはズレがあるだろう。著者が言いたいのは、「1つの文脈にフルコミットすることを前提とするのはやめよう」ということだ。フルコミットをやめた先に生産性を持ち込みたいわけではないのだと理解している。しかし、「何にもコミットしない」で好きに生きていくのは案外難しい。文脈へのコミットをやめるなら、成果へのコミットにスイッチするか、コミットの度合いを落として経済的豊かさを一定手放すのかといった、決断が必要になるということだ。「1つの文脈にフルコミットすることを前提とするのはやめよう」という主張は、優しさの裏に厳しさもセットで提示されている。
オルタナティブのない(と感じられる)閉塞感のある社会というものは、生きづらい。人は選択肢を持つことで自分の人生に活力を取り戻せる、という面はある。「全身だけではなく、半身も」というオルタナティブを示している本書は、社会の閉塞感を打ち破る1つのツールとして受け取られ、多くの人に読まれているのかもしれない。
しかし、常に他の選択肢より優れたオルタナティブというものは存在しない。この点を認識したうえで、オルタナティブを検討し、主体的に選択していくことが重要だ。以前、Youtubeチャンネルに出演していた将棋棋士の羽生善治氏が言っていた言葉を思い出す。「相手がある手を選択したということは、その手にはメリットがありつつも、その裏には必ずデメリットがあるということです。そのデメリットを捉えて、どのように崩していけるかを考えています。」