たまには古典ではなく新刊本をすすんで読むのもよいことかもしれない
古典、つまり時の洗礼を受けて長きにわたり読み継がれてきた本は、読んで後悔することの少ない「鉄板本」である、ということがよく言われる。私もこの説に異論はなく、人生の中でなるべく古典に挑戦する、手を伸ばす機会を増やしていこうとしている。
以前紹介した小泉信三氏の「読書論」でも、新刊本ばかりを手に取るのではなく、古典を読むべきということが説かれていた。
それでは、新刊本は読む価値がないのだろうかというと、必ずしもそうではないのではないかと最近ふと考えた。
新刊本は、確かに時の洗礼を受けていない。そして、おそらく新刊本のほとんどすべては、数十年もすれば誰にも読まれなくなる。そもそも出版すらされていない可能性が非常に高い。
しかしそれは、見方を変えれば「今、この時しか読めない本を読むことができる」ということでもある。数十年後には、今手にしている本を誰も読むことができず、そこにある情報も、面白さも、視点も、誰も味わうことができなくなる。この刹那は、新刊本にしかない。
もちろん、王道は古典を読むことである。ど真ん中の道は、時の洗礼を受けて生き残った古典群に譲り渡すべきだ。しかし、今の時代に生まれた者の特権として、新刊本を読み、その刹那を楽しむことは間違いなくある。全ての本が古典になりたくて存在しているわけではない。その時代にしか読まれない、読まれる必要のない本というものも存在し、その面白さを享受することにこそ、新刊本を読む価値があるのではないかと思う。