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ジャック・デリダの「声と現象」を読む:第一章 記号、いくつかの記号
「声と現象」は、ジャック・デリダがフッサールの「論理学研究」を綿密に読解した内容を記述した試論。
第一章「記号、いくつかの記号」においては、章のタイトルにあるとおり「記号」という言葉を分解し、解きほぐしていくことに力点が置かれている。
最大のポイントは、記号という語には「表現」と「指標」という2つの概念が包含されているという冒頭のセンテンスだ。第二章以降では、「記号」から「指標」を取り除き、純粋な「表現」を取り出すことについて語られるため、そもそも「表現」と「指標」とは何か、どのような関係性にあるのかを本章で掴んでおくことが肝要となる。
この「表現」と「指標」について、第一章のポイントを簡単にまとめると次のとおりだ。
ドイツ語ではBedeutungとSinnという2つの語が「意味」という概念を指し示す。このうち、Bedeutungは表現が運ぶ「意味」を示し、Sinnは表現だけではなく指標が運ぶ、より広義の「意味」を示す、とフッサールは定義している。
指標と表現の間の差異は、実体的な差異ではなく機能的な差異である。1つの同じ現象が表現として把握されることもあれば、指標として把握されることもある。
表現と指標は汚染=混交(コンタミネ)されている。即ち、全ての表現には指標作用が混入する。
しかし、表現が指標より小さい概念だということではなく、Bedeutung(表現に対応する意味)が指標との関係の中にもつれあっているだけであるとフッサールは考える。
それを証明するために、表現が指標とは絡み合っていないような現象学的状況として、孤独な心的生活を想定する。意味(Bedeutung)は、伝達作用を持たない独り言の言述の中で純粋性が浮かび上がる。
ここで重要なのは、表現と指標は現実には必ずもつれ合ってしまう、つまり純粋な表現というものがない、ということである。フッサールは、言語の純粋な「表現」を取り出して考察しようとしているのだが、それが難しいということになる。そのため、フッサールは何とか表現から指標を取り除くための操作を行おうとしている(と、デリダは読んでいる)。
その操作が、「孤独な心的生活を想定する」というものだ。言葉は、他人に何かを伝える時に、外部の何かを指し示そうとして指標作用が発生する。しかし、自分の心の中で語っている時には外部の何かを指し示さない。つまり指標作用が発生しないと考えられるので、ここに純粋な表現を見出せるのではないか、という考え方である。
この「表現から指標を取り除く」作業、つまり「指標を還元する」作業について、第二章で詳述されている。第一章では、基本的な考え方が示されていると考えられる。
ちなみに、本書ではドイツ語のBedeutungという語が頻出するが、これは「表現」をシニフィアンとしたときのシニフィエに該当する。つまり、Bedeutungは「表現が示している意味」を指す。デリダは語られる言述のイデア的意味内容と本書で表現している。
以下、読書メモ
第一章 記号、いくつかの記号
「記号」という言葉は「表現」と「指標」という2つの異質な概念を包含している。
指標は、意味と呼ぶようなものを何も運ばない。
だからといって、シニフィエがないということではない。シニフィエがないシニフィアンなどというものは本質的にあり得ない。
語られる言述は複雑な構造なので、指標的な層を常に含んでいるが、フッサールは表現への独占権を取っておく。
フッサールはSinnとBedeutungという言葉を、フレーゲとは異なる観点で区別している。
Bedeutungは語られる言述のイデア的意味内容に割り当てられる。
Sinnはノエマ的領域の全体を、その非表現的な層に至るまでカバーしている。
指標と表現の間の差異は、実体的な差異ではなく機能的な差異である。指標と表現は概念を表わす言葉ではなく、機能である。
故に、1つの同じ現象が表現として把握されることもあれば、指標として把握されることもあり、言述的記号として把握されることもあれば非言述的記号として把握されることもある。
言述的記号は、常に指標的な体系の中にもつれ、拘束されている。表現と指標は汚染=混交(コンタミネ)されている。
しかし、表現と指標の本質的区別の可能性は損なわれない。その可能性は権利上のもの、現象学的なものであるから。
全ての表現には指標作用が混入しており、その逆ではないのにもかかわらず、表現は指標作用に包含されるものではないということを証明する必要がある。
フッサールは、Bedeutung(表現に対応する意味)が指標との関係の中にもつれあっているからであり、決して包含されているわけではないと考えている。
その考えを証明するためには、表現が指標とは絡み合っていないような現象学的状況を見つけ出す必要がある。
意味(Bedeutung)は、伝達作用を持たない独り言の言述の中で純粋性が浮かび上がる。つまり、ある外との関係が中断されるときにだけ純粋性を抽出することができる。
ただし、中断されるのは「ある外」との関係だけである。対象への関係、つまりある種の対象的=客観的イデア性の思念を消してしまうわけではない。むしろそれを純然たる表現性においてあらわにすることになる。
表現は、表現が指標として機能していない孤独な心的生活においても、その意味する機能を発揮する。よって表現は指標よりも狭い概念として関係しているわけではない、ということになる。
その上で、フッサールはまず指標作用の領域を明確にして、還元することから始める。
その点に入る前に、本来的には「記号」という語を理解するために、記号一般の本質、機能、或は本質的構造を了解する必要があるが、フッサールはこの点を詳述せずに論を展開している。
しかしこれはフッサールの慎重さを示しているとも言える。記号という語の統一性を性急に信用しないという慎重さ。
そして、「記号一般とはなんであるか」と問うことによって、記号の問題が存在論の目論見に従属させられてしまう。仮に真理とか本質よりも前に記号が存在するとしたら、そういった問いを立てることには何の意味もないことになってしまう。
記号をある種の運動の構造だといなすならば、事物一般のカテゴリーには属さず、存在について問いを提起されるようなものではないということになる。