本題

これは、自分のために、人に言いたい、知ってほしい、と思って書いたものです。ですが、すでに私を知っている人にとっては知らなくてよかったはずの私の裏側(むしろ今の私の核となる部分でさえある)を知ってしまうことになると思うので、人の痛みを自分ごとのように受け止めてしまう人や極端に傷つきやすい人は読まないでください。とはいえよくある話だとも思うので、これを読む人やその人の身近で同じように苦しみそうな人がいたら、私の話が苦しむ前に引き返すきっかけになればいいと思う。もう苦しくて孤独な人に対しては、その状況になってしまったことは恥ずかしいことではないし人に頼っていいのだと思うきっかけになればいいと思う。以下、自己責任でお願いします。








私は摂食障害だ。
物心つくころには自分の体型を気にしていた。多少ふくよかではあったが気にするほどでもなかったと思う。体型をいじられたことはあったが、自分に謎の自信があったので落ち込むことはなかった。自分自身も他人の体型を揶揄してしまったことがあるくらいだ。自分で自分のことを「明るくて面白い奴」だと評価していた。中学で女子校に入り、体型について言われることはほぼなくなったものの、お年頃の女子に囲まれて見た目への執着はむしろ強まった。それと同時に強気に振る舞っていた小学生時代を恥じるようになり、自分の性格にも自信が無くなってしまった。「暗くてつまらない奴」になってしまった。見た目も性格もよくない、運動音痴だし成績がいいわけでもない、部活で始めた楽器の演奏も下手、長所を聞かれても何も出てこなかった。

中学3年生の4月、健康診断で自分より身長の高い友人より自分の体が重いことにショックを受けてダイエットを決意した。これが拒食症のはじまりだった(あくまで直接的なきっかけにすぎず根本的な原因はもっと別のところにあるので友人が悪いわけではない)。それまでにも幾度となくダイエットに挑戦していたが、この時は本気だった。最初は5kg痩せることを目標に運動と食事の管理をした。朝昼晩厳格にカロリーを計算すべく、自分でお弁当を作るようになった。幼稚園のときのお弁当箱に何を何グラムどの配置で入れるか前日の夜に絵を描いてから寝ていた。さすがにそんなに小さなお弁当箱だと「それしか食べないの?」「ダイエットしてるの?もっと食べた方がいいよ!」などと毎回言われるのが面倒なので(心配して言ってくれていたのに申し訳ない)、上の段に食材を詰めて下の段を空にしたお弁当箱を持っていって誤魔化したこともある。夜は帰宅後すぐにランニングをして家族が帰ってくる前に風呂と夕飯を済ませた。昨日の自分より速く長く走ろうと追い詰めた結果、運動は1ヶ月でやめてしまったため、体重管理は食事制限のみに頼るようになった。そんな生活をしていたら7月の健康診断では体重が9kg減っていた。保健室に呼び出されたが危機感はなく、食事制限を続行した。

自分を拒食症だと認識したのは秋頃。とにかく食べることが怖い。ありがたいはずのお土産のお菓子が恐怖だった。友人との遊びの約束も、必ず食事を伴うのでいちいち覚悟が必要だった。体は思い通りに痩せていくけど、どこか寂しさがあった。明らかに食事に対する意識が変わっていた。そんな時、冷凍庫にある白米やアイスを食べ尽くしてしまった日がある。炭水化物もスイーツも一等の「禁止食材」だ。修学旅行が悪天候により延期され、平日の昼間に家で1人になったから魔が差したのだと思う。その日から過食が始まった。最初は休日に過食した分を平日の拒食で相殺して体重を保っていた。このとき、4月から14kg減っていた。また保健室に呼ばれるのが面倒なので制服の下にジャージを着たりスカートの中におもりを入れたりして健康診断に臨んだのを覚えている。今思えば馬鹿らしいが、体温を上げることに少しでも摂取カロリーを消費させるため冬はできるだけ薄着で過ごすようにしていた。友達とステーキを食べて帰ってきた日には暖房をつけずにタンクトップで寒さを凌いだ。寒さや空腹はもはや快感だった。でもなんとなく孤独だった。そんな生活は長く続かず過食する日が増えていく。このときから吐けるならば吐いてしまいたい、と正直思っていたが、吐くと治しにくいとの文言をネットで見かけたので、吐かないと決めた。これは賢明な選択だったと思う。非嘔吐過食症(正確な病名ではない)になった。気づけばほぼ毎日過食するようになり、半年で21kg増えていた。嫌いな運動と孤独な食事制限で減らした14kgは水の泡。中学3年生の冬に採寸した高校用のスカートなんて入るはずもなくチャックが途中までしか上がらない状態で過ごしていた。恥ずかしかった。痩せたい気持ちは拒食症の時と何一つ変わらないのに、自分の行動と見た目が真逆の方向に突き進んで止まってくれなかった。自分ではもう自分をコントロールできなくなっていた。誰か助けて、と毎晩風呂で1人で泣いた。正直死にたかった。私を追い越しざまに車が轢いてくれたらいいのに、と思いながら歩道の端を歩いて帰った。結局、自分で死ぬ勇気はなかったし、そこまで追い詰められていたわけじゃなかったんだと思う。高校1年生はこれまでの人生で最も辛い1年間だったけど、この時、死ねなくてよかった。

悪い話だけではない。これはただただ幸運なのだが、成績だけは自然と上がっていった。摂食障害に振り回されて割とボロボロなはずなのに、我ながらよくやったと思う。体重管理に対するストイックさを勉強にも向けられたからかもしれない。その流れで高校2年生になり症状が少しずつ和らぎはじめた。きっかけは塾の夏期講習で、とある先生の化学の授業が非常に面白くて心を掴まれた。大学では化学の研究をするんだ!と意気込んだ。この時から私の心の依存先が食事から勉強に徐々にシフトしていく。本もたくさん読んだ。部活の夏合宿の行きのバスでは1人かっこつけてヘミングウェイの「老人と海」を読んだ気がする。内容はほぼ覚えていない。友人とお昼を食べずに1人カフェテリアで単語帳を見ながらお弁当を食べるようになったり、試験前も友人とではなく1人で勉強するようになった。友人と過ごす時間を削った。極端な方法で自分なりに努力して孤独になっていくのは拒食症のときと重なる。やればやるほど成果は出るもので、成績はさらに良くなった。とりあえず勉強だけは他人に劣等感を抱かずに済むようになった。この時も食事に対するマイルールは継続していたため多少拒食気味になっていたものの、だいぶ食行動が改善された。精神的に落ち着いてきた。体重は21kg増えたところから11kgほど元に戻った。

高校3年生、いよいよ勉強だけすればいい身となった。あとは持ち前のストイックさで1年間耐えるだけ。非嘔吐過食のあの辛さを乗り越えた自分にとって受験の辛さなんて屁でもない、と言い聞かせた。入浴以外の時間は全て勉強に充てた。この1年間は拒食気味になることもあったが、摂食障害に時間を奪われることはなかった。共通一次から二次の本試験までの数ヶ月は学校もなく、ひたすら机に向かって勉強していたため5kgほど増えたが合格が最優先だったので別段気にならなかった。ありがたいことに志望校に合格できたが、目標が無くなってしまっていた。すごく好きだった化学も受験勉強中に少し不得意な教科だと気づき興味が失せていたから、いつしか大学に入ることが目的になっていた。やりたいことが無くなってしまったのだ。そういうわけで大学に入ってから心の依存先は勉強から体型管理に戻ってしまったのだと思う。

大学入学後の数ヶ月は受験期に太った分を元に戻そうと自重トレーニングと食事管理(少し拒食気味だと思う)をしたので夏休みには8kgほど体重が減っていた。たまに過食してしまう日が出てきたが1ヶ月に1度くらいだったので太らなかった。このときも中学3年生の時と同様に少し無理をしてしまったみたいだ。いつしか自重トレーニングをやめ、過食する日が段々と増えていき大学1年生の11月、人生で初めて過食嘔吐した。過食というのは文字通りの「食べ過ぎ」とは比にならない量を食べる。横たわっても座っても息を吸うのが苦しいくらい胃に食べ物を詰め込む。だからそれまでにも過食した後に吐きたいと思ったことは何度もあるが、吐き方がよくわからなかった。この時はなぜか、吐くことができてしまった。多分、高校1年生の時の非嘔吐過食で死にたいとまで思ったから、もう1度でもその地獄を味わう気にはなれなかったのだと思う。死にたくなるよりは病気が治らない方がまだマシだと思ったのかもしれない。摂食障害は受験期に完治したとまで思っていたのに、いとも簡単に再発した。この日から症状が悪化したのは間違いない。リモート授業が主だったので過食嘔吐しながら授業を受けた。というか、リモート授業をBGMに過食嘔吐した。授業なんて聞いていないに等しく、何も頭に入ってこなかった。寝ている時間よりトイレにこもっている時間の方が長いような生活を送っていた。自室の机でリモート授業を受けようとしても、台所の冷凍庫にある餃子が気になりすぎて(純粋な食べたい、とはまた違う)授業に集中できなかった。葛藤の末、誘惑に負け授業そっちのけで餃子やらなんやらを貪り食った。結局その授業の単位は落とした。深夜には家を抜け出し、コンビニでパンやおにぎり、お菓子やアイスを買い込んでマンションの多目的トイレで吐いた。冬は凍えるように寒かったがそれでも過食嘔吐を我慢できなかった。友人と夕食を食べても、それが前菜になってしまう。1人になった途端過食嘔吐が始まる。友人と共有した食事の思い出ごと吐いてトイレに流しているようで罪悪感があった。ミュージカルの発表の前日も深夜に過食嘔吐した。喉を傷めるかもしれないが止められなかった。体力も睡眠時間も削れる。数時間さえ我慢できず、今一瞬の解放感や快楽に身を委ねてしまう。

誤算だったのは、吐いているとはいえまだ過食嘔吐に慣れているわけではないので、体重が増えていくこと。結局大学2年生の冬には18kg増えていた。人生MAX体重。存在を見られるのが恥ずかしい。電車内、自分の背後で女子高生の笑い声を聞くと自分の見た目の醜さを嘲笑しているのではないかと思った。そんなはずないと頭ではわかっているけど、とにかく人の目が怖かった。この時から何かを頑張ることが怖くなった。やり過ぎなダイエットで摂食障害を拗らせたり、受験勉強で燃え尽きたり。頑張った結果、反動で逆方向に突き進み、頑張る前より悪い状態になる。何を頑張ってもこの繰り返しになる気がした。それでも死にたいとは思わなかった。死にたくはないけど、生きることをお休みさせてほしかった。大学を卒業さえすれば学歴がもらえるし、大学で楽しい経験も沢山したから死ぬのが勿体なかった。それに、死にたくても死ねなかった高校1年生の自分のためにも死ぬわけにはいかなかった。今更死ぬくらいなら高校1年生のときに死んでおけば、苦しみをより早く断ち切れたのだから。とりあえず時間が解決してくれるのを待った。また、化学を好きになったときみたいな転機が訪れるかもしれない。今は学校に通って友達と遊んで普通の大学生らしく過ごしていればいい。友達と過ごす時間だけは心から楽しいし自然と笑顔になれるのだから私はまだ大丈夫、病気なんて甘えなのだろうと思った。病気を言い訳にしてはいけない。まずは自分でなんとかしよう。病気のことを言えないため、「勉強のやる気は無いけどなんだかんだ楽しそうにやってる奴」になるしかなかった。嘘ではない。なんとか留年を回避し、大学3年生には進学できた。勉強したくないから過食嘔吐に逃げるのか、過食嘔吐に支配されているから勉強どころじゃないのか、どちらも正解だと思う。悪循環が生まれていた。

大学3年生の6月、ボディビルダーのインフルエンサーのYouTubeを見た。その人も昔摂食障害に苦しんだが、今は適切な食事と運動により心身ともに健康らしい。自分ができることだけをやればいいという、他のボディビルダーの言葉も聞いた。それを見て運動を頑張らない程度に頑張ってみようと思った。やはり最後には少し頑張りすぎたらしくやめてしまったが、私にしては珍しく3ヶ月運動が続いた。運動を続ける期間も、頻度こそ減ったものの過食嘔吐は続いていた。この頃にはMAX体重から10kgほど戻っていた。運動をやめてしまうと体重管理は食事制限のみに頼るわけだから過食嘔吐の頻度は元通りになった。運動と並行して深夜帯のバイトを始めた。自分をコントロールできない時間を作りたくなかったから。夜に家を抜け出して過食嘔吐にお金を溶かすぐらいなら深夜も働いてお金を稼いでしまいたい。そんな企みだった。結局退勤後に過食嘔吐してしまう日もあったのであまり得策ではなかったが、頻度は減ったと思う。学業と両立するのが難しそうだったので夏休みのうちに辞めた。秋学期が始まってからも勉強には身が入らなかった。授業から逃げて過食嘔吐したことは何度もある。当然のように単位を落としていく。あと数単位落としたら留年(正確には4年生にはなれるけどストレートでは卒業できない)。落とす気しかしなかった。

こうして追い詰められた大学3年生の年末、大学を辞めて調理師の専門学校に行くことを思い立った。いわゆる総合大学を卒業または中退して、全く別の道に進んだ知人や兄弟がいるため、私にだってその可能性はあると思った。現に、こんなに精神をすり減らしてまで大学に通う意味がわからなかった。思えば、進路選択の時期に芸術などの道を考えたことはなく、当たり前のように総合大学を目指した。年明け後は専門学校のオープンキャンパスや説明会に足を運んだ。今の勉強から離れ自分の意志で行動していることがとてつもなく解放的だった。1人夜行バスに乗り大阪の専門学校にも行った。大阪は魅力的だった。異国の地とまでは言わないが、東京生まれ東京育ちの自分にとっては新鮮な場所だった。せっかく大阪まで行ったのだし大阪の学校に行きたいと思った。なんとか4月入学に間に合わせたい。願書を出して合格がもらえたのだが、過食嘔吐がすぐ治るわけでもなく家の中では憂鬱な気分のままだった。そんな私を見て兄が冷静に指摘した。「大阪行きが決まっても全然変わっていない。調理は、本当にやりたいことではないんじゃないの?そのくらいの気持ちで大阪行って一人暮らししてもまた過食嘔吐に苦しむだけだと思うよ。」図星だった。実際、調理に興味はあったし、幼少期にシェフやパティシエになりたいと語ったこともあるが、大阪行きは逃げの選択だったのだと思う。皮肉にも誰よりも食べ物を食べてきているのだからこれを仕事に生かしてしまいたかった。これで今の勉強から、家族から、東京から、今までの自分を作ったものから解放される。一人暮らしも許される。全部東京に置いてきて、新天地で生まれ変わりたかった。結局、大学に戻ることにしたが、もう大学を辞めるからとブッチした授業の単位は当然落としているので、留年は確定していた。大阪行きは無くなったが、一人暮らし計画だけは続行した。すぐにキャンパス近くの物件を見に行ってそこに決めた。大学を辞めて調理の専門に行くとか、一人暮らしするとか、なんだかんだわがままに家族は付き合ってくれたし、そこにお金を出せるだけの経済力があったことには感謝しなければならない。

3年生までに取るべき単位が足りていないとはいえ肩書きだけ大学4年生になり一人暮らしが始まった。一人暮らしが始まって10日ほどは拒食気味ながらも過食嘔吐無しで過ごすことができた。宿泊行事でもない限り、普通に3食を食べるということができなくなっていた私にとっては快挙だった。一度壊れてしまうと「普通」を演じるのにも心のエネルギーが必要になる。段々と「普通」ができなくなって過食嘔吐の頻度は元通りになった。なんなら誰にも監視されず過食嘔吐しやすくなってしまった。過食嘔吐が悪化することを覚悟した上での一人暮らしだったので予想していたことではあるが、落胆した。最初こそ授業にやる気を見せていたが長くは続かず、課題の提出締切が迫っていても過食嘔吐に抗えず、低クオリティな作品を提出する羽目になった。これまでならこんなもの見せられない!と提出から逃げていたので少し成長を感じていたが、次の課題提出からは逃げてしまったので結果、落単した。

過食嘔吐のまま2年以上が経過し、上手く吐けるようになってしまった(吐くことを能力のように表現すると反感を買いそうだが表現のしやすさのために一旦許して欲しい)。少しずつ体重が落ち、大学4年生の夏には、過食嘔吐になって増えた18kgが元に戻った。22時にバイトを終え帰宅してから過食嘔吐。何度もコンビニと家を往復する。一通り終わる頃にはすでに2時、3時。そこからお風呂に入ったり髪を乾かしたりすると寝るのは夜明けになる。そもそも、過食嘔吐が終わる頃にはお風呂に入る気力もなく、お風呂キャンセル界隈の住民と化していた。夜と朝が連続していることを何度も感じた。さっき稼いだバイト代なんて余裕で吹き飛ぶ。むしろ赤字。一人暮らし開始当初、親から仕送りをもらっていたが、お金があるだけ過食嘔吐に消費してしまうし多少余ったとしても仕送りから美容院代やら交際費やらを出すのは申し訳なくてできないため(つまり仕送りをもらう以上は過食嘔吐にしかお金を使えない)、仕送りを止めてもらった。家賃は払ってもらうが光熱費と食費、娯楽や趣味の費用は全て自分で賄う。仕送りをもらっていた頃は月に20万以上にも昇った食費が15万円ほどにはなった。自分で稼いだお金なので過食嘔吐の罪悪感は減ったが、いずれにしても貯金が0になるまで過食嘔吐してしまう。金も時間も体力も無い。睡眠時間も確保できない。心に余裕は無いはず。夜な夜な過食嘔吐して寝れないぐらいなら、この時間も働いていればいいと思い約1年ぶりに深夜帯のバイトを再開した。バイトで学ぶことも沢山あるが、やはり退勤後に過食嘔吐してしまうことが多く生活リズムも崩れる。食べて吐いてバイトして寝れる時に寝る生活。大学卒業もかかっているので、辞めないまでもお休みしたほうが良さそうだ。もはやバイトしなければお金が無いから過食嘔吐しないのでは?とも思うがそうしたら親のクレジットカードと連携している交通系ICカードからお金を捻出しそうな自分がいるし、他の趣味や娯楽も全て奪われるのでもっと精神的におかしくなりそうで踏み切れない。そして今、過食嘔吐になってから3年が経とうとしている。摂食障害になってからは7年、食について考えなかった日は無い。


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