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鬼滅の刃世界での恋愛と結婚と、普通について 〜鬼滅の最終回発情期(ファイナルファンタジー)は不必要か?〜

鬼滅の刃、相変わらず人気が衰えませんね。
個人的には遊郭篇が一番好きなので、アニメ2期が楽しみです。
今日のnotoでは、鬼滅の恋愛観やそれの持つ意味について、小芭内と蜜璃ちゃんに着目して書いていきたいと思います。
アニメ化されている以降の、最終回までのネタバレについて思い切り触れているのでその点お気をつけて読んでください。


以前、マシュマロというサービスにてこの様な質問をいただきました。

鬼滅の刃における恋愛観を考察していただきたいです。
個人的には、「鬼滅の刃」の恋愛観はフィーリングから始まるものが多く、「交際」というよりも「結婚」という「愛」の方面に重きを置いている気がします。
善逸→禰󠄀豆子、愈史郎→珠世、小芭内→蜜璃は一目惚れからスタートしていますし、「夫」や「お嫁さん」といった結婚を意識させるワードを相手の好意を示す際に使用しています。
また、狛治と恋雪や縁壱とうたははっきりとした恋愛感情をもつきっかけは描写されていませんが結婚関係にあり、片方がいなくなることで人生が大きく変わってしまいます。
鬼滅の刃における恋愛の立ち位置はどのようなものとお考えでしょうか?

この質問について、考えたことを述べます。

大正時代の「普通」

鬼滅の刃における「恋愛」の立ち位置について私の考えを述べるにあたって、大正時代の「結婚」という概念から触れさせていただきます。
まず、現代と大正時代では、恋愛や結婚の持つ意味が大きく違います。
今、交際をしたからといってそれが全て結婚に繋がることはありません。
デートして、カップルになってキスしてセックスをしても結婚に繋がらなかったという人たちはたくさんいますし、もはや当たり前です。
そもそも結婚することが当たり前、という思想はナンセンスであると、結婚の必要性が薄れつつあります。

しかし大正時代は「人間として生まれた以上、結婚はして当たり前」でした。強火ですね。人間である以上、飯を食わなければ死ぬのと同じように、結婚はして当然のものでした。
童謡「赤とんぼ」は大正10年に作られたものですが、そこでは「ねえやは15で嫁にいき」と歌われています。


なので「交際、それ即ち結婚」「恋愛、それ即ち結婚」でした。

かつて江戸時代以前、結婚は愛や恋の為ではなく、家や血筋の存続の為、あるいは子産みによる労働の人手不足の解消のためだけに存在していました。
明治維新で身分制が無くなり、以降、自由恋愛と、恋愛結婚が生まれてきます。

そういう時代でした。
なので質問者様の仰るように現代は「付き合うのは恋、結婚は愛」ですが、鬼滅の世界は恋も愛もひっくるめてイコール結婚ですので、現代のような「結婚前に付き合う」というクッションはほぼありません。あったとしても文通程度でしょう。その次の段階は婚約です。

鬼滅の刃時代の「普通」をまとめます。

・結婚は当たり前
・身分問わず恋愛結婚していいよ。無理なら見合いで結婚してね。
・25までは親の同意必要。25過ぎたら自由に結婚していけど親に認められない結婚はちょっと…。
・女は結婚まで純潔を守るべき。家事育児して。外で仕事は良くない
・男も純潔を守るのが本当は良いけど家父長特権で女遊びは禁止しない(性に大らかな日本人の名残として遊郭は存在。江戸時代にはあった女性向けの遊郭は無い)

これが大正時代でした

(補足)
元々日本は性に対して大らかでした。男性向け風俗だけでなく女性向けの風俗もありましたし、同性愛もそれほど迫害されていませんでした。なので江戸時代は離婚や独身も多かったそうです。
いわゆる「古い日本的価値観」が入ってきたのは明治のあたりです。明治維新に伴い先進諸国(キリスト教圏)から日本に輸入された「同性愛は罪。性関係は男女の間のみで結ばれるもの。結婚まで貞操を守るのが良い」という聖書ベースの貞操観念が政府によって推し進められました。

恋愛=結婚、恋愛が無ければ見合いで結婚。それくらい結婚は「普通」に、フランクに行われることでした。

鬼滅の刃の世界は、鬼狩りや鬼というフィクション要素を除いて他は普通の大正時代であることが、炭次郎たちと珠代たちが浅草で出会う回や無限列車篇で描かれます。

そのため、鬼滅キャラの恋愛観は前述した「恋愛=結婚」という大正時代の恋愛観を持っています。

つまりです。
善逸が初対面で「結婚!」と叫んだり、少しでもときめいたらすぐ結婚に結びつける姿を見て、現代の感覚では凄く重い奴だと感じるでしょう。
ですが彼は大正の価値観で生きているので、「結婚して!」は現代における「付き合って!」くらい軽いものです。
結婚につながらない交際、という概念がほぼ無いので、確か鬼滅の刃で男女間の関係で「付き合う」ってセリフ無かったように記憶してます。間違ったらごめんなさい。

当時、結婚は今より軽いものだと書きましたが、それは、今ほど一人で生きていける世の中では無かったためです。
米を炊くのに火から起こす時代です。田畑を手で耕していた時代です。毎日ただ死なないように生きるだけで大勢の人間の労力が必要です。

結婚が軽いものということは、裏返せば「家族という一共同体に属する事の重要性」を表します。
つまり、鬼滅のキャラに共通する「家族を奪われ一人になる」というのは精神的にだけではなく、労働力を奪われているので物理的に死活問題なのです。
大正時代において家族をみんな殺されるというのは、飯も尊厳も手足も奪われるようなものであり、それはもう、鬼狩りになるか人外になるか首くくるか、くらい追い詰められる状況なのです。
だから狛治は恋雪や慶蔵という家族を奪われて鬼になりますし、縁壱は家族を奪われ話をするのも嫌と言っていた剣の道に進みました。

鬼殺隊の「異常」

前述と照らし合わせると、鬼殺隊が大正時代の価値観においてどれほどアブノーマルな組織であるかが浮かび上がります

・女性が剣を振り回し家事育児以外の仕事をしている
 →女性は家事育児が当たり前
・嫁3人持ち
 →一夫一妻が当たり前
・独身者が多い
 →女は15〜20、男は15〜25過ぎたら結婚が当たり前
・未婚約、恋愛関係に無い男女が行動を共にする
 →婚約をしていない男女が軽率に二人きりになるものではない。

しかし、組織の構造以外は、柱たちはそれなりに「普通」な人生を歩んできました(宇髄さんは出身自体が忍というフィクションがかったものなので例外)。
しかし小芭内伊黒と甘露寺蜜璃は、存在自体がアブノーマルです。

伊黒さんは男尊女卑の大正時代にヒエラルキーのトップが女の家に生まれました。普通ではない目を持ち、不自由な生活を送りそのまま鬼殺隊に入ります。

蜜璃ちゃんもまた、常人離れした髪色や筋肉密度というアブノーマルを持って生まれたため、"普通"のフリをしても上手くいかず、"普通"はできる結婚もできず、結果としてアブノーマルな鬼殺隊という組織に属する事になりました。そして、あらゆる人にときめく彼女は当時において貞淑とは言えません。

このように生まれついてアブノーマルな伊黒さんと蜜璃ちゃんは、鬼がいなくとも、大正時代では「普通」に生きる事ができない2人なのです

そのため、伊黒さんと蜜璃ちゃんにとって「結婚」は物凄く大きな意味を持ちます。それは「普通」のことだからです。
もちろんこの"普通"とは、「大正時代においての普通」です。

伊黒は蜜璃に「普通の女の子だから好きになった」と言い、蜜璃も伊黒ただ1人だけに好きだと伝え(「普通」の貞操観念)、好きあった者同士の「普通の行動」として結婚を誓います。

恋柱の名の通り作中で恋愛を担った蜜璃、及び伊黒さんと蜜璃ちゃんのカップルですが、アブノーマルな彼らによって、鬼滅世界の「普通」の象徴が「恋愛(=結婚)」であることが描かれました。

最終回で、鬼滅はみんなが結婚し子孫を残したことが描かれました。
最終回発情期(ファイナルファンタジー)を起こした、と一部で揶揄されましたが、私は、あれは意味のある総カプ化だったのではないかと思います。
最後に無意味にくっつくことが最終回発情期だとするのなら、鬼滅の刃の最終回は最終回発情期ではないのではないでしょうか。

大正時代において、恋愛とは結婚であり、結婚とは家族を作り、家と自分の寝床や食い扶持(生活)を守るためにすることです。
つまり、鬼滅の刃にとって「恋愛」と「結婚」と「家族」と「居場所」と「生活」は近しい意味の言葉だと考えられです。
それは鬼や鬼狩りの両者が失った、あるいは最初から持っていなかった「普通の平穏な生活」の象徴であり、あの作品の中の人間としての尊厳とも言えます。
そのことを現したのが、誰よりアブノーマルであった伊黒・蜜璃のカップルでした。

「普通」であった結婚をし、「普通」に家族を持つことは、一度彼らが奪われた「普通」の平凡な生活(人間の尊厳=家族、居場所、生活)を取り戻した事と同じ意味を持ちます。

逆に、大正時代において独身で過ごすほうが時代背景的に不自然ですし、最後まで「普通」を取り戻せなかった、という切ないことになってしまうのではないでしょうか、と考えました。

あくまで、時代背景的に思い描かれていた「普通の人間の尊厳」が「恋愛と結婚と家族」となざるを得ないだけで、「恋愛ができないから、結婚しないから、家族が好きじゃない読者は失格」ということが言いたいのではないと思います。

炭治郎たちは、(炭治郎たちが生きている時代の中で思い描かれている)普通の幸せを手に入れたよ、ということを表すための総カプ化だったと私は思います。


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