上都集 - ネオスフィア編 2
音の原型質は頭の中で鳴る。外部の音ではない。精神内部機構=システムとしてボディであるアンプ=ケーブルは血液と捉えるモノ。そこから繋がったスピーカーが頭の両脇、耳の内側にあり、レコード文化に根差すとイコライザーでテレパシーや体感音質、音域を変える事もできる。DJ的体験でミキサーを組み込めばフェーダーも扱える様になる。道具として使い始めるといかにも外部機器であろうが技術として体得する時は精神内部機構に組み込まれ、感覚を取り入れる時に使用できるインプットシステムとなる。インターフェースだ。
つまりはテレパシーは外部に発していなく内部でなる音なのだ。そしてシステムとしてのスピーカーは唯一の外部機関で音と空気を取り入れるモノだ。音変換をどこで行っているかはとても重要なポイントで、単純な音は通常レコードジャケットに見られる様なグラフィックを伴うが、真に純粋な音はイメージを伴わない。
他人から向けられる意思はその地に赴かない限り実際のイメージは無い。音楽は異なり、レコジャケにグラフィックがあるか、アルバムバージョンかシングルのホワイト版か、で聴こえる音が異なり通常ホワイト版などグラフィックの無い音源はテレパシーで飛ばない。つまり外部に繋がらなく、他人が聴けない。これは実体験を伴うが自分がその音をどう思うか、どう捉えるかではなく、音源製作者かオリジナルの音源発信者の作品かによる。同じ曲でもアルバムバージョンはよく届くのにベストコンピだと聴こえないということがある。つまりはそのテレパシーの発言者が自分自身にグラフィックイメージないしはイメージを持っているか否かが別れ目だと思う。アーティストイメージとは本来外部の人間が使うもので抱かれるモノだが、本来はアーティスト本人が打ち出した作品が形作るのでポップな方はそこを操作するためにファッションを選ぶ。だがグラフィックのアーティストや通常のテレパシー発言者に関してはノーだ。外部の者が発言者本人に対し具体的なイメージを持っているかないかで、インプットが目にあるか耳にあるかの違いがある。
本人の形以外はイメージなのでいくら具体的でも他人が抱く者は押し付けられる勝手なイメージでありある意味では洗脳で、音楽は音に絵が付くかどうかは大衆が認識する音に対するイメージを変える。
要するにアーティスト本人はグラフィック込みの作品として出すが、再生機器は他者でありそれを聴く人間は再生者の感覚以上に自らの感覚で変換し精神内部で自分に聴かせる。聴く本人がテレパシー音源に抱く印象、イメージに変換しているので、いくら非理解者に分かりやすくしてもネガティヴなら方向性は変わらないベクトルを感じながら変換し続ける。
私はテレパシーを音で出し他者の意思は発音にわざわざ変換して読み取るが、聴く側はどうだろう。どこの誰がわからない者の情報が手に入らない場合に自ら聴く事を志願し情報を得る時見た目やグラフィックを頼りに音源を探し聴く事になる。つまりはグラフィック以外の認識が無ければ見た目に頼るしか無い。
精神構造上のグラフィックは一度印象付けば忘れる事はない。実物は服も変わればメイクも変わる。レコードも印象で探してもこれだ、と分かる。服とレコジャケの印象の違い、構造上の違い。それは、布か紙かしか無い。顔の印象は変わるし表情があるのでとても追いつかないが変わらないものは物質だ。しかし服は表情やテクスチャーがあるし、印象が変わる。
単純な絵柄として機械的に聴くか、顔とセットで洋服を精神構造上の印象画として感ずるかは、テレパシーを聞かれる側の影響を考えると正しく印象付かないと正しくは伝わらない。
つまりはテレパシー発信者のキャラクターが間違っていてはいけない。
自分のテレパシーは外部に向けられるものでなく自分の内部に向けられた音である事が必ずしも重要で、必ずそうあるものを外部に向けて発信する事は意念が生じなければ生まれないし、執着や嫉妬心などの強いストレスによる場合が多い。自分に向けていればストレスは生じないし、必要な会話しか生まれない。つまりは全てがすべて自問自答の様な思考回路を使った内部解釈のシステムを使って変換するのがテレパシーで、オタク的で内気な人間の方が親和性が高く理解度が深いのである。