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093_DIALUCK「A First Aid Kit」

天気予報は今週、やっとのことで梅雨明けを発表した。しかし、もう7月も終わってしまう。私が小さい頃に比べれると、段々とこの鬱陶しい季節が長引いている気がする。だけど、これで、やっと思い切り泳げるんだ。

まだ朝の8時前だというのに、ジリジリと照りつける真夏の陽射しが、昨日局地的に降った夕立でできた水溜りに映る。雲ひとつない空を見上げると、少しばかりくらっとした。昨日まで重たい生理痛を抱えていたので、貧血気味だったのだ。だけど、適度な食欲もあってか、私の自主練に合わせて母親が出してくれたレタスサンドをミルクのたっぷり入ったコーヒーで流し込んだ。

人通りの少ないけやき通りを一人歩いて、土曜の午前中の空気感がすがすがしく感じながら、私は足早に休日の学校に急ぐ。足並みは軽いが、どうやら明らかに気が急っている。体より心の方が先に進んでいる。早く、早くあの透明なプールの底に潜水したい。私の頭の中では、すでに水を得た魚になったような感覚で、空想のプールの中ですでに縦横無尽に泳ぎまわっている自分をイメージしている。あの全長50mにいっぱいに水で満たされたプールの中で、私の心は解放されていくんだ。

平日、狭っ苦しい教室とクラスメイトのざわつきの中には、たぶん私の心はない。誰かと誰かの色恋沙汰とか、付き合ってるとか、いついつ別れるかもだとか、先生同士の仲違いとか、職員室内の雰囲気とか、クラスのカーストの中心人物同士の喧嘩の真相とか、女子の誰々(私なのか、そうじゃないのか)の胸が大きいとか育ちすぎだとか、ざわざわしたそういったノイズは、あの透明なプールの水の中に存在しない。

私は泳法の中ではクロールが一番好きだ。というか、正確にいうと、私はクロールしかしない、クロールしかしたくないのだ。クロールでただ掴み取るように漕ぎ出すその手の先の先へ、私は確実にただ前に前にと、進んでいく。海で泳ぐよりも、断然このプールで泳ぎ続ける方がいい。

このプールの中だと、物理的に50mで折り返さざるを得ないけれど、でも確かに私は前に進んでいると、いう感覚を得ることができる。その日、積み重ねたこのプールの折り返しの数で、私は前に進んでいるという実感を得ることができる。この体全身を使って、全力で泳ぐ喜びを噛み締めることができるのだ。

なんにも考えずに泳いでいる間、私は透明な魚になっている。教室の私は、ずっとその場で行進の足踏みし続けさせられているように感じた。前に進んでいるようで、全然進んでいない。でも、周りの景色だけはだんだんと変わっていく。ツカツカと前に進んでいってる子たちを横目に、足踏みを繰り返しているうち、私の背丈も胸もどんどん大きくなっていく。私はただ単に、前に進みたいだけなのに。だから私は泳ぐ。

いつの間にか、なりたくもないのに17歳になってしまった。小学校6年生くらいの体でずっといたかった。別にそこまで身長も高くなくていいし、あれくらいコンパクトな体だったら、泳ぐのにも決して支障はなかったのに。

水着になると、どうしても大きく膨らんだ胸が気になってきた。たぷんとしたスライムのような「これ」は、今の自分になんにも役に立たない。この代物のせいで、クロールでかき出す動作が絶対昔よりもやりづらいし、水への抵抗にもなるしで、どうしても泳ぎにも影響が出てきている。はっきり言って、無用の長物というものだ、こんなものいらない。

確かテニスのプロ選手とかで、胸が邪魔だからと切除した選手がいたらしいが、気持ちは痛いほどわかる。ただ、水泳部の女子の中で、私だけ突出して胸が大きくて、他の子は全然だから、私が「胸なんか邪魔なだけでいらないよね」と言っても、お金持ちが「お金なんていらないよね」と言っているみたいで、なんとなく共感を得られにくい空気になっている。そういうのも、正直、めんどくさい。

なんでこんなもの、女にだけ、抱え込ませたの。こんな重たい荷物を背負わせて、お前はずっとこれでこれを抱えて泳いでいけだなんて、理不尽にすぎないか。私、ただ単に、もっともっと水泳したいだけなんですけど。

できうることならば、マグロとか回遊魚のように泳ぐためだけに特化した鋭角でシャープな体つきに私はなりたかった。なぜ、自分の好きなようなことをするために、自分の体を選べないの。なぜ、周りの友達は私の胸を羨ましそうに見つめるのだろう。私もあげられるものなら、とっくに人にあげているのに。もっともっと好きなように泳ぎたいのに、それでも、人目を気にしすぎているのは自分の悪いところだ。

他の部員がいるところでは、どうしても自分の泳ぎに集中できない。夢中になって、このプールの中に意識が埋没できない。だから、こうやって土曜日の自主練日に、ただ一人で集中してひたすら泳ぎ続けたいのだ。そして、この透明なプールの中で、このスライムのように大きくなった胸とともに、単なる元素記号のH2Oでできている水の粒子に分解してもらって、自分も一緒に溶けてしまいたかった。夢中で泳いでいるうちに、いつの間にか、自然にそうなっていないかな、なんて考えてしまっている。

DIALUCK / セーシュン

学校に着いて、いつものように用務員室でプールの鍵を借りようとした。鍵の借受簿のノートに自分の名前と時間を記入しようとしたら、ギョッとした。いつも空白になっている欄に、名前が書いてある。

「木山郁夫」氏名欄には几帳面そうな筆遣いで書かれていた。いつもヘナヘナとしていた私の書く文字とは、幾分か対照的だった。てか、なんで、なんでアイツがいるの。土曜の午前中のこの時間は私だけの時間だったのに。私だけがプールを独占できる時間なのに。ちょっとちょっと、何、勝手に入ってきてんの。(ちゃんと借受簿に記載しているので、別に勝手に入ってきているわけではない。)朝ぼーっとしていた私の頭が急に回転し出す。

いや、木山って、そんな練習熱心な奴だったっけ。ていうか、どんな奴だったっけ。全然話したことないから、正直、わからない。ていうか、そもそも水泳部の男子の中でも、特に何考えているかわからないやつ。たぶん、正直本気でやれば、すごく速いのにって言われているのに、あえて本気でやってないみたいな。実力隠している俺余裕みたいな。そういうのマジホントいけすかない。平日の練習とかでの印象はそんな感じなのに、でも、こんな土曜のこんな朝の早い時間に自主練とかするんだ。私は少し意外な感じがした。

でも一番の問題は、私がこの大きな胸を抱えた水着でアイツの前に出たくない、ってことだ。しかもこの時間は、私とアイツだけじゃん。たまに、休憩中とかにバカな男子どもが大声でふざけている時とかに、「胸が大きい」とか「揉みたい」とか、断片的に聞こえてくるワードがあって(単なる私の聞き間違いであって欲しい)、私はその度に手で自分の胸を抱え込んで、そのままその場に座ってうずくまりたくなる。うわー、って声をあげたくなる。何なの?私だって好きで大きいわけじゃないのに、っていう気持ち。どうせ、わかんないんだろうな、男子って。それでいうと、アイツはどっちなんだろう。

そのまま木山郁夫という文字をずっと見つめて、いろんな考えをめぐらせている間に、どうしても私はそこに突っ立って動けなくなってしまった。競泳用水着と着替えの入ったトートバッグを握る手をギュッと固くした。そのまま、私はやっぱり単なる胸の大きな一人の女子のままで、決して魚になることはできなかった。


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