1.青木さんと谷田さんのこと|私たちのとうびょうき:死んでいないので生きていかざるをえない|青木志帆・谷田朋美
私が6歳だったある日、幼稚園の園庭で仲の良かった男児を追いかけまわしていたところ、顔面蒼白の母が突然現れ、私は大学病院へ連行されました。その後、頭蓋咽頭腫(ずがいいんとうしゅ)という脳腫瘍と診断され、開頭手術を受けました。
頭の中って一度傷つくと再生しないんですよ。腫瘍によって「下垂体」という部位が傷ついたせいで、汎下垂体機能低下症という病名をつけられました。今のところ、たぶん死ぬまで汎下垂体機能低下症の人として生きる予定です。
幼少期に大病を経験した子にありがちなように、「医者になりたい」とか、「研究者になって自分の病気を治すんや」と一瞬思ったこともありました。ところが、想像を絶するほど数的処理能力がなかったため、理系の選択肢は採りようがありませんでした。まるで開頭手術の時に、腫瘍と一緒に数学の能力も取られたかのようです。む、無念。
そうこうしているうちに、成人した瞬間、私の病気が国の難病指定から外れ、「冗談だろう」と思うような高額医療費が毎月かかるようになりました。だいたい一人暮らしの学生の家賃分くらいです。これは、病気がない人は負担しなくていいお金なんです。でも、私にとっては、払えなくなったら死んでしまうお金でもあるんです。命を質にとられてお金を巻き上げられている気分です。
なんかおかしくない?
病気だけですでに身体がしんどくて大いに損をしている気分なのに、その体調を維持するためだけにこんなに負担しなければならないの? 医療費を稼ぐだけで私の人生が終わってしまいそうですけど?
そう強烈に思った私は、「医者がダメなら、弁護士になって、自分を原告にして憲法訴訟をしてやる」と本気で考えるようになりました。冷静に考えると、原告になるために自分が弁護士になる必要はないし、体力もないのに何も弁護士になる必要はないんじゃないか、というツッコミはありえるところです。でも、その時の私は、自分が弁護士にならなければ、「難病患者の医療費が高すぎる」などというマニアックな論点など、まともに相手にしてもらえない、と思ったのです。何より、みんな、子どもが大きな病気にかかるドラマを見たらきっと涙するはずなのに、せっかく生き残った子に用意されている現実は、あまりにも冷たくないか? 何とかするためには、それなりの資格が必要だ、と思いこんでいました。
2008年9月、ようやく司法試験に合格したと同時に、タイミングよく私の病気が国の難病指定を受けることになりました。これでけた違いに医療費の負担が軽くなりました。非常にありがたく、ホッとしたのを覚えています。ところが、よく考えると、私は医療費で困らなくなったので、私の野望である憲法訴訟の原告適格(裁判で訴えることができる資格)もなくなってしまったことになります。
その後、町の法律事務所で一般的なイメージのマチ弁として勤めて研鑽を積んだ後、弁護士職員として市役所に採用され、入庁しました。現在は地域住民やその支援をする職員からの法律相談を、同じ職員として聞いています。弁護士の中では、相当異色の経歴です。なぜこのような進路になったのかについても、私に付きまとう「難病」という因果とまったく無関係ではありません。その理由は……あ、もう紙幅がない? では、この続きは本編のどこかで。
自分の病気について語るのが苦手です。打ち明けたくない、という意味ではありません。
「何という病気ですか」
「いつ症状が始まりましたか」
「病気でできないことは何ですか」
・・・
「病を患っている」と言うと、必ず尋ねられるだろうこれらの質問に「分からない」と答えることしかできないからなのです。
15歳の頃には、すでに頭痛、呼吸困難感、めまい、ブレーンフォグなど病気のデパートのような状態になっていました。寝たきりの時もあれば普通に動ける時もあり、その日の症状によってできないことが変わります。あらゆる病院を巡ったものの、どんな検査でも異常はなく、精神科の薬も効きませんでした。医師には「気のせいでは」と首をかしげられ、診断が確定しないのです。
その頃、漫画「DRAGON QUEST-ダイの大冒険-」にはまっていました。主人公が魔王を倒すという目標に向かって仲間と切磋琢磨し成長を遂げ、最後には魔王に打ち勝つ物語。「優等生」を自認していた私も、よい学校よい職場で能力を高め、社会の役に立つのだと意気込んでいました。(ちなみに、初めて青木さんのツイッターを拝見した際、アニメ版の公式アカウントをフォローされていたことが、お声かけする動機のひとつになりました。)しかし、病気になったとたんに自分の成長が信じられなくなり、達成すべき目標も見失いました。体調の波に流されるように過ごす日々。周囲からは「劣等生」とささやかれ、自分でも弱さに逃げ込んでいるのでは、と「病んでいる」ことに確信が持てずにいました。
ただ、人と出会うことだけはやめませんでした。学生時代はインドネシアに国費留学し、独立紛争の活動家など「逆境」の中にある人たちと過ごします。彼らから「記者」を薦められるなどし、新聞社に入社。体力勝負な職場ですぐに落ちこぼれたものの、取材を通して「あなたに書いて欲しい」と言ってくださる人たちに出会い、小さな居場所を与えられてきたのです。
28歳の時、医師から「脳脊髄液減少症」と診断され、初めて身体的な疾患だと認められたことで、自責の念も和らぎ、周囲の理解も得られると思いました。ただ、専門医以外の医師からは「そんな病気はない」と言われて混乱。さらに検査後から全身に熱湯をかけられたような痛みに襲われるように。医師は親身に話を聴いてくれましたが、治療後さらに体調は悪化。寝たきり状態になり、3年間休職しました。以来、医学エビデンスを求めて病院を転々とすることはやめました。
復帰後は小学生新聞の記者に。報道の現場からは離れましたが、全国の恐竜学者に会いに行き、古生物学者になりたかった子ども時代の夢を取り戻した気持ちになれました。現在は、大阪本社編集局で記者として勤務。診断が確定しないことについての記事を書いたところ、ツイッター上で「読んだ」という青木さんと出会います。制度のすき間におちた難病患者の困難を言葉にしてきた青木さんに、ずっと誰かにぶつけてみたかった言葉をぶつけたいと思いました。
「自分の病気がよく分からない。診断名は求めていない。あなたに、一緒に考えてもらえるとうれしい」
この出会いが私たちをいずこに導いてくれるのか、ワクワクしています。
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