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5.「病気が分かってよかったね」?(谷田朋美)|私たちのとうびょうき:死んでいないので生きていかざるをえない

「私たちのとうびょうき」は、弁護士・青木志帆さんと新聞記者・谷田朋美さんによる往復ウェブ連載。慢性疾患と共に生きる二人が、生きづらさを言葉に紡いでいきます。今回は、谷田朋美さんの担当回です。

私こそが、どタニマーですか! 確かに、「谷田がいるのは谷だ」ということに周囲はもちろん、自分でさえ明確には気づけないまま、日々をやり過ごしてきたように思います。青木さんのように、タニマーイズム宣言して社会を斬るって、かなりすごいこと。どタニマーには「制度や関心の谷間に落ちていて誰も助けてくれない」ってことが、まずことばにできないんですよ。

「さぼった」と誤解され続けていた

とはいえ、病気には困っていました。仕事中に体調が悪化して倒れ、同僚に電話して急きょ仕事を代わってもらったことがあります。最近、当時の所属長にその話を持ち出され、「さぼった」と誤解され続けていたことが分かりました。十数年目にして「さぼったわけではないです」と訂正する機会を得ましたが、日常をしのぐためには、「精神的に弱い」とか「怠けている」といったマイナスの評価を受け入れるしかない、と思ってきたことは事実。病気ってコントロールできるものではありません。日常をともに過ごしていれば、負担をかけざるを得ない日がきます。症状を打ち明けるしかない状況にもなるのですが、「なぜ病院で徹底的に検査しないのか」「医師は何と言っているのか」と問われることとなり、「あらゆる検査をしてきたが数値に異常はない」「医師にはたいしたことないと言われる」と応えるしかないジレンマに、毎回陥っていました。「現代医学ではよく分からない症状なのだ」と感じてはいるものの、それでは納得してもらえないことは前回もお話しした通り。そんなわけで、確かに痛みを感じているにもかかわらず、自分でも病んでいることに確信が持てずにいたんです

本来なら、診断がつくことで自分の置かれた状況の見晴らしはよくなるのでしょう。でも、私の場合、診断を求めることで、さらに深い谷へと迷い込むことになりました。

診断をめぐってさらに混乱、そして休職

28歳の時、脳脊髄液減少症と診断されました。外傷などで髄液が漏れることでさまざまな症状を引き起こすとして、近年、認知が広がってきた疾患です。周囲から「治る気があるなら原因を突き止めろ」と強く薦められ、腰に注射針で造影剤を入れて全身を診るRIシンチ検査を受けたところ、「髄液が漏れている」と言われました。初めて身体的な疾患だと認められたことで、自責の念は和らぎました。ただ、検査自体が負担だったのか、少しからだを動かすだけで、激しい頭痛やめまいがして、立ち上がることもできなくなりました。顔面痙攣するわ、皮膚が焼けるように痛いわ、家族の名前がすぐ出てこないわ、いろんな症状が現れ、これまでとは異質の体調不良を感じたのです。医師には事前にリスクを確認し、「現在は注射針も細くなり、検査自体によって髄液が漏れることはない」などとうかがっていましたが、倒れた後に「100人に一人は体調が悪化する」と説明されました。「けっこうな確率なので先に言ってくれ」と突っ込みたかったです。検査後、一度は自宅に戻ったものの、すぐに入院。ちょっと動けるようになると仕事に復帰しては、症状が悪化して再び入院、ということをしばらく繰り返していました。気づけば身長170cmもあるのに体重が35kgまで落ちていました。鏡の中には、女体の丸みがそぎ落とされた、まごうことなき病人がいましたね。こりゃあもう誰も病気を疑わないわ、と思いました。
 
上司から「見るからに働けそうにないので休職したほうがよい」と助言され、傷病休暇に入ることになりました。広島に住む両親が大阪の職場に呼ばれて、傷病手当があるから金銭面で心配する必要はないこと、復帰時に人事で不利にはしないことなどの説明がありました。高齢の二人を不安にさせることがしんどかったので、助かりましたね。休職中は実家でケアしてほしい、とお願いまでしてくれましたが、通院の都合もあり、当時住んでいた兵庫で療養を続けることに決めたのです。
 
休職手続きを代行してもらうなど、上司のおかげでスムーズに仕事を休むことができたものの、治る見通しはありませんでした。治療法としては、髄液が漏れていると思われる部位に自分の血液を注入して「かさぶた」をつくり、穴を塞ぐ「ブラッドパッチ療法」があります。ただ、専門医以外の何人かの医師に相談したところ、「そんな病気はない」「治療を受けても意味がない」と言われて混乱しました。疾患の存在や治療法を巡って、医学界では論争状態にあるようでした。1年ほど悩んだ末、RIシンチ検査で髄液が漏れた可能性もあるのではと考え、現状ではこれしかないと判断。体重が40kgまで戻ったところで、この治療法を推奨する医師がいる熱海市内の病院でブラッドパッチ療法を受けることにしました。関西から新幹線で3時間かけて通院を重ね、約1週間入院しました。当時は自費診療だったため、療養生活で底をつきかけていた貯金をはたいて約50万円を支払いました。気分はもう背水の陣ですね。
 
実際、海に面したその病院には、流れ流れてたどり着いたような人びとが大勢いました。同じ治療を受ける患者さんたちから、夜な夜な、何年も何十年も医療機関をさまよった話をうかがったのです。ブラッドパッチ療法の効果はそれぞれでしたが、誰もが「ようやく診断された」と口を揃えておっしゃいました。なかでも印象的だったのは「がんの人がうらやましい」ということば。今振り返ると、「タニマーである」ということの訴えだったのかもしれません。がんをうらやんでしまうほどに、制度あるいは関心の谷間に落ちていることの、病苦そのものとはまた別個の苦しみがあるのだ、という。
 
私自身、療養中に体調が急激に悪化し、夜間に近隣の救急外来を受診したところ、「あなたのようなややこしい患者に来られても困る」と言われたことがありました。これまでの経緯を伝え、「点滴をしてほしい」とお願いしたところ、「『訴えない』という念書を書くなら100mmのみ点滴することを考えてもよい」と。1分2分を争うような救急対応をしている医師にとって、すぐには死なない痛みを抱えた患者が来ても迷惑かもしれないとは想像しましたが、やっとの思いでタクシーを手配し、病院にたどり着いた身としては悲しかったですね。医学的なエビデンスが整わない病気であっても、痛みを否定せず治療を考えてくれる医師を必要とする患者が、少なくないのだと感じます。
 
ただ、私が再び熱海の病院に戻ることはありませんでした。ブラッドパッチ治療後、なかなか改善とはならず、「完治は見込めないのだなぁ」と納得したのです。週1、2回、鍼灸師に自宅に来てもらうほかは、ひたすら寝ていました。座っているだけで体感としては全力疾走。社会復帰は絶望的かに思えましたが、立って、杖を使って歩いてと、「できた」ことに自信をつけ、だましだまし動けるようになったところで仕事に復帰しました。会社は3年待ってくれました。

診断名で語られることの苦痛

周囲からは「病気が分かってよかったね」「快復おめでとう」と言ってもらいましたが、私が経験したことって、診断を受けて治療し改善した、というものではないんです。診断のための検査で体調が悪化し、20代後半期のすべての時間とお金を治療に費やしたものの、診断前の状態には戻らなかった、という経験なんですね。診断の代償は大きく、先行きはさらに不透明になりました。「診断されてよかった」とは思えず、患者会などとつながることもできませんでした。確かに、一般社会では「病人」だと認められましたが、医療現場ではその存在を否定されることも少なくなく、「脳脊髄液減少症」という診断名で語られることに苦痛を感じている自分もいました。私は慢性の症状やそれに伴う困りごとに対処したいのであり、診断は二の次である、と思うようになっていました。ただ単に診断を求めていた頃よりも孤立し混乱した状態に陥っていたのです。

【後編につづく】

谷田朋美(たにだ・ともみ)……新聞記者。1981年生まれ。15歳の頃より、頭痛や倦怠感、めまい、呼吸困難感などの症状が24時間365日続いている。2005年、新聞社入社。主に難病や障害をテーマに記事を執筆してきた。ヨガ歴20年で、恐竜と漫画が大好き。立命館大学生存学研究所客員研究員。


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