9.「一人前」へのあこがれ(青木志帆)|私たちのとうびょうき:死んでいないので生きていかざるをえない
いろんな意味で生産性に乏しい私たちですが
まさか、この「とうびょうき」でインクルーシブ教育に足を踏み入れることになるとは思ってもみ、なかったこともありませんが、こんなにストライクゾーンど真ん中のお話が出てくるとは思いませんでした。私たちが子どもの頃って、義務教育期間中はクラスにひとりは障害のある子がいたものです。でも、高校、しかも進学校で、重度障害のある人と机を並べる経験はとても珍しいことですね。
「強くいられないことで追い詰められていた私の居場所を、おっきーが作ってくれていた」と言われると、これまでどちらかというと「強い」ほうの世界を生きてきた私の胸がキュッと痛みます。ここまでくる道中、何度か「もう無理じゃぁぁぁ」と叫ぶことはたびたびありましたが、そうはいっても弁護士という資格が資格なので、同病の患者を中心に、「どうせ強いほうの人だから」と思われるだろうし、実際そう言われることもあるのでそういう引け目がずっとあるのです。
まぁ、人並みのはたらきがどうしたって無理なのが難病者です。
身体障害者や知的障害者の場合、障害のない人との能力的、体力的な差が一定なのである程度予測がたち、その範囲内で合理的配慮を提供すれば安定的に労働力としてカウントできます。ところが私たちの場合、波が激しいために予想が難しく、さらに一度体調を崩すと先の見えないトンネルに入ってしまって全然動けなくなります。このへんが、余計にわが身の不全感を強めてしまい、自尊心が削られていく……ので、「おっきー」という居場所が必要になるんでしょう。
でも、本当に私たちに「強さ」がないのでしょうか。
難病者のあこがれの的。二階堂晴信。
突然ですが、『三月のライオン』(羽海野チカ著、白泉社)という漫画をご存じでしょうか。普段アニメは見ても、漫画はほとんど買わない(本棚の空きスペースを食うから……)私が、唯一継続して単行本を買っている作品です。この作品には、新刊が出るたびにほぼ確実に難病者を沸き立たせる登場人物がいます。彼の名を、二階堂晴信といいます。
『三月のライオン』は、高校生プロ棋士である主人公が、棋士仲間を得ながらゆっくりじっくり成長していく物語です。羽海野先生の前作『ハチミツとクローバー』では、新刊が出るごとにギャン泣きさせられていたので、その流れで愛読しています。私のファン歴は長いですが、いまだに将棋はルールも含めてさっぱりわかっていないという不届き者です。二階堂晴信は、主人公の(自称)ライバル、というか、(自称)心友として、陰キャの主人公に腐れ縁的に付きまとう同年代の棋士です。
主人公と比べると余計に際立つ陽キャの彼ですが、生まれた時から腎臓系の難病(病名は特定されていない)があります。子どもの頃から将棋大会に出ては無理をして倒れたり、塩分を厳重管理した薄味の食事療法に耐え続けたりするなど、難病関係者であれば大なり小なり身に覚えのあるエピソードを山ほどひっさげています。
二階堂のモデルは、実在の棋士の村山聖氏と言われています。村山棋士は、羽生善治氏と同世代の棋士で、彼も難治性ネフローゼ症候群という腎臓疾患を抱えていました。難治性ネフローゼ症候群が直接の原因ではないようですが、1998年に29歳の若さで亡くなりました。村山棋士の生涯については、『聖の青春』として書籍化され、松山ケンイチさん主演で2016年に映画化もされています。
さて、二階堂が私たち難病者の心を惹きつけて離さないのは、病人へのスティグマをことごとくぶっ壊す生き様と、病気に伴う弱さが全然隠せていないのに、将棋においては主人公に追いつこうと不断の努力を重ねて着実に強くなっていくことと……(あげ始めたらきりがないので以下自粛)。
前者の「スティグマぶっ壊し」について語るだけでもこの連載3回分くらいは簡単に書けてしまいそうですが、今回、二階堂愛について語ろうと思ったのは後者の「弱さをダダもれにしながらも、将棋盤の上だけは好きなだけ向上心を追求する求道者である」という点です。
ある日、体調を大きく崩して家で臥せっている二階堂のもとを、先輩棋士が見舞いに訪れて将棋を指します。ところが体調が悪すぎて連敗する二階堂を元気づけるため、少し手加減をした先輩に対し、二階堂は泣きながら言うのです。
普段の生活では、子どもらしく外で遊ぶことも、好きなものを好きなだけ食べることも固く禁じられ、我慢に我慢を重ねてもなお、たびたび高熱を出して倒れてしまい、他人と同じことが何一つできない不全感ばかりが彼を襲うなか、唯一、ベッドの上で鍛えあげた将棋でだけは、「病人」であることを忘れて、ひとりの「棋士」でいることができるわけです。将棋盤こそが、彼が暴れまわれる唯一のフィールドなのです。私は、彼の普段の生活の不全感が身をもってよくわかるからこそ、彼の一言が刺さるんです……っていう気持ち、わかります? 二階堂はねぇ、新刊が出るたびにこういう感じで刺してくるので、もう(うるさい)。
私の場合、自分の存在を確かめる場所は、将棋盤……ではなく、原稿用紙だった気がします。(文章を)「書く」という行為だけは、物心ついた時から現在まで変わらずに好きであり続けています。「将来の夢」も、童話作家、新聞記者、いろいろ変遷するけれど、基本的には「原稿用紙」とつきあえる仕事をうろうろし、最後にたどり着いたのがたまたま弁護士でした。職業が職業なので、総合的に能力が高そうに思われますが、思い返すと「書く」を伴わない科目はことごとくダメでした。数学、理科系はもとより、体育、家庭科、美術、全部ダメ。そして、「書かない」テスト、つまりセンター試験(現在では大学入学共通テスト)や法科大学院入学の際に課せられていた適性試験、そして司法試験の択一式試験や、果てはTOEICに至るまでのあらゆるマークシート式の試験もとにかくダメでした。法科大学院在学中、当時流行り始めたばかりの「ブログ」を毎日更新していたところ、大手新聞社で記者をしていた同じクラスの同級生に、「あなたの文章は商品になる」と言われたことが今でも心の支えです。
能力のフェアな評価
さて、これまた突然ですが、最近『ケアしケアされ生きていく』(竹端寛著、ちくまプリマ―新書)という本にも出会いました。この「私たちのとうびょうき」構想について谷田さんと一緒に相談したところ、「いいねぇ、それ」と一緒に悪ノリしてくださった、大学教授の竹端寛さんの最新刊です。帯にどーんと「他人に迷惑をかけていい!」という字が躍り、「迷惑をかけるな憲法」こそが社会を息苦しくしている元凶だ、と説きます。
そして、能力主義へのアンチテーゼが繰り広げられていきます。能力主義的な前提こそが、「がんばれば報われる」という規範を生み、逆に「がんばらないと報われない」という生きづらさを作出している、と。
この、能力主義の「能力」って何なのだろう、と思うのです。
インクルーシブ教育の議論をするときも、そこそこの確率で「能力主義教育」が批判されます。私は、前回の原稿でもお話ししたように、自分に対してインクルーシブな環境を整えることができませんでした。それでも、どうにか法科大学院までグレずに卒業することができたのは、「書くこと」で下剋上して、ルサンチマンを晴らすことができたから、ということもある気がします。
能力主義や「がんばらなければ報われない」が行き過ぎると生きづらくなる代表格が私たち病人です。でも、「そのままの自分でいいよ」と言われすぎても、どこか納得できない自分がいます。だって、二階堂晴信に惹かれるのは、病気で楽しいことを何もかもあきらめる生活を強いられながら、それでも将棋盤の中だけでは、病気関係なくフェアな評価を求めているから。彼のこのストイックさって、能力主義の規範が支配していることを前提にしたものなんですよね。彼に「そのままの自分でいいよ」と言ってしまうと、その魅力は途端に急降下してしまうでしょう。
難病者は、どこへ行っても、なにをやっても、だいたい半人前扱いされます。「無理をしなくていいよ」は、その象徴なのです。もう無理をしなくてもいいと安堵すると同時に、「また半人前のことしかできなかった」とへこむのです。それだけに、発揮した能力をフェアに評価してほしいという欲求はことのほか強いんじゃないかと思います(私だけ?)。だからこそ、「将棋でまで『弱い人間』扱いされたら、もうボクはどこで生きていったらいいんですか!?」と叫ぶ二階堂に、私たちは悶絶しながら共感するのです。
【後編につづく】