中世の本質(13)分権統治の深化
領地安堵は時代とともに、その姿を変えながらも鎌倉時代から江戸時代まで一貫して存続していました。ですから分権統治は室町時代で途絶えてしまったのではありません、しかし桃山時代へと連続し、高度化していったのです。すなわち室町時代と桃山時代とは同じ分権制を布いていたのであり、そしてそれ故、不可分に、そして密接に連続していたのです。中世室町時代死亡説はこの点においても誤っている。
室町時代は中世が著しく成長した時代でした。室町時代の危うさ、すなわち政争や社会紛争の頻発していた理由は足利将軍の力不足と中世社会の激変の二つにあるのです。その結果、足利は大名統制をはじめとした治安維持の体制を整えることができなかったのです。
それでも足利は大名統制に一歩を踏み出していました。それは素朴なものでしたが、有力な守護大名(個人)を足利将軍家の近くに常駐させ、彼らの動静を監視し、彼らを牽制していたのです。それは参勤交代へと発展する制度でした。
江戸時代、徳川は大名統制を確立しました。徳川は北条の大名統制や足利の大名統制や秀吉の大名統制をさらに改良し、高度化し、厳格なものとしました。徳川政権の下、泰時以来の武家の法典(御成敗式目)は大きく改訂され、数々の大名統制策をちりばめた武家諸法度が生まれます。そして足利の大名監視をもとに参勤交代は開発され、制度化され、江戸末期まで続きます。
そして秀吉の行った国替えも引き継がれ、さらに大規模に、そして執拗に断行されました。従って江戸時代は分権統治の完成期といえるでしょう。大名たちはすっかりおとなしくなり、争乱は起こらず、太平の世が実現したのです。
この分権制の歴史的な連続と発展は中世の歴史そのものです。中世の興味深い深化が明瞭に見てとれます。泰時も義満も秀吉も家康も皆、同じ封建領主の仲間です、そして中世王として君臨し、同じ国家支配の形(分権制)を追求し、永遠の治安維持を目指していたのです。
ですから室町時代と桃山時代を差別化し、その間で歴史を画するという行為は皮相的であり、誤った行為といってよい。それは歴史の持つ連続性と合理性を無視したものです、その結果、中世は乱暴にも二つに切断される。それは中世史の曲解であり、日本史の捏造です。従って中世室町時代死亡説は歴史論から除去されるべきものです。
(この書は歴史論<中世化革命>からの引用です。それはアマゾンから出版されています)
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