*37 佳境
気付けば彼岸も過ぎた。停留所の人混みの中でこそこそと知らぬ男を探す事も、その間に同じく停留所に佇む美しい女に気を惚られる事も無く過ぎた。そして忽ち十月である。
彼岸はおろか盂蘭盆でさえもう何年と実家に顔を見せていない私であるが、こうして彼岸を頭に浮かべた序でに幼少の頃の墓参りを思い出した。当時は墓を参る理由もそもそも盂蘭盆の実態さえ知らぬまま、只夏休みには御盆と呼ばれる頃に一度、祖父母や両親や姉兄妹について墓を参っては墓石を洗ったり線香を焚いたりするものだと言う認識ばかりであった為に、斑気な性分も相俟って時として何故態々墓を洗いに行かないといけないんだと駄々を捏ねる様に粗末に扱っていたが、あの日帽子で払った線香の煙も踏み分けた雑草から跳ね散る露も、陽に照らされているにも関わらず何処か鬱葱としていた墓地も、今改めてそれらの記憶をなぞる様に懐かしみの畦道を歩きたいと、九〇〇〇㎞も遠ざかっておきながら考えている。盆にかえらざる事、覆水の如しである。
日曜日のドイツが殊更静かであるのは、スーパーマーケットを含む殆どの商業施設が閉まっているというのが理由の一つである。すると何をしようにも諦めがつくので喩え部屋で一日中寝返りを打つ事に躍起になっていても、それが傍から見たら堕落だと言われようと、店が開いていないんだから仕様が無いの一点で張っていられるのである。
そんな日曜日を私は引越しの準備にあて下宿中を掃除した。根が生皮であるとは言え、これまでも人並みには掃除機を動かし便器を擦ってきたわけであるが、最後の大掃除であった為に普段手付かずの奥や隅や端にまで気を配った。後になって大家から聞いたのだが、私達が出て行ってから次の学生が入る迄の間に清掃員が入るから掃除はしないでもいいとの事であった。まあその話を予め聞いていたとしても、私は同じように掃除をしていたに違いなかった。頗る日本人らしい気質である。
思い返せば越して来た三月から六ヶ月と経った。長くも感じれば早かったような気もする。掃除をして綺麗になった部屋を見て、最初の頃を思い出した。そこに佇む人影が私の目には大変未熟に映った。この僅か六ヶ月を切り取っただけでも、私は幾度となく自省も自戒も繰り返して来た。それ故にこの六ヶ月の間、私は終始未熟者の自覚が体感としてあったのであるが、その六ヶ月前の私の化身たる人影は携えて来た体感よりもずっと幼稚に思えた。自覚の無いままに進んでいた成長を空っぽになった借室の内に見出したのである。
下宿で迎える最後の晩にはトーマスを誘ってピザを食った。試験も差し迫る中で何時にも増して時間は貴重であるが、最後の晩にもなってそんな乾いた事を言う程冷酷な心を持ち合わせていない私は、彼に勧められるままにビールまで飲んだ。授業のある平日には酒を一切摂らない中で珍しく注がれたビールに驚いた体はみるみる赤くなった。そして翌木曜日の授業が終わると、私達は彼の車目一杯に荷物を押し込み下宿を後にした。最後に大家夫婦に鍵を返した時などは、随分温かい空気が流れていた。「マイスターになったらケーキでも焼いてまた顔を出しますね」という同居人の言葉を隣で聞きながら、こういう気の利いた言葉が咄嗟に出てくる彼に尽々感服した。
日曜日に下宿の掃除を済まし、愈々試験まで二週間となった月曜日であったがここへ来て体調を崩した。大凡週末の無理が祟ったのであろうが、勢いと根性で乗り切れると考えていた自分が些か幼稚に感ぜられた。殆どの衣類と風邪薬までもを引越し先に既に運び終えてしまっていたので、有り合わせの長袖と長ズボンを身に付けその上からジャンパーを羽織り腰から下には毛布を巻き付ける一昔前の苦学生の如き出で立ちで授業を受けていた。妙に汗ばみつつも何とか暖は確保出来たのであるが、体の内側は頗る調子を崩していたので何時になく授業に集中出来ずにいた。挙句の果てに、最後の授業を後三十分残した所で思い切ってベッドに転がった。そしてそのまま眠りに落ち、夜になって一度目を覚まして腹を拵えたがそれから直ぐにまた体を横にして翌朝までよく眠った。大方暖かくしてよく眠ればそれで体は調子を取り戻すものと考えていたのだが、目を覚ますとどうもまだ本調子では無さそうであった。
とは言え丸二日もへえへえと授業を蔑ろに出来る程の余裕は元より持ち合わせていないわけであるから、何とか我慢してパソコンの前に居続けた。これも一つオンライン授業の利点乃至恩恵である。調子の悪いなりに前日よりは幾分かましであったので、授業の終わった後はドラッグストアへ買い物に行く為に太陽の下に身を曝した。心地良い秋晴れであったので心持ち身も軽くなる様であったが、それにしても病み上がりにドラッグストアへ出向くとは手遅れ甚だしい様に思われるが肝心の用事は薬とはまた別にあった。
水曜の朝にはすっかり健康であった。そしてまた健康である事の有難みを思い知らされた。健康な体があればいいというのが大人になって願う事だと歌った歌があったが、二十歳手前で聞いた頃よりも俄然真直ぐ胸に響きそうである。久しぶりの健康体を持ってして私はいつになく授業に集中した。
今週から授業の部門によっては試験対策が行われ始めた。所謂模擬試験の様に実際の試験同様に構成された問題を各自で解くようにという指示の元、時間が与えられ各々に取り掛かった。分からない所があれば教科書や資料を見て構わないと言うのでそれも頼りに自力で解き進めていったのだが、それにしても頭に入っていない単語が続出したり、一体どういう質問で全体どう答えたら良いのか然張皆目見当も付かない事態に、すっかり健康である筈なのに視界が眩んだ。そしてみるみる内に焦燥感の波に飲まれた。
数カ月前の私であれば屹度そのまま海底まで沈んでいたに違いないが、今の私はあっという間に海面に顔を上げた。これまで私が約一ヶ月の間に繰り返して来た勉強の効率が酷く悪かったとして、或いはそもそも日常会話のドイツ語で満足する程度の外国人が受けるには余りに無謀な試験だったとして、そんな事に肩と足取りを落として、取るに足りない弱音をぷくぷくと気泡にして吐き出す私はもう過去のものである。ともすれば下宿を大掃除した際に埃と共に放り出したくらいなものである。この模擬試験を如何様に使い、残す十日を如何様に熟すかだけである。諦めるにはまだ早い事を、後悔するには時間が残され過ぎているという事を私はこの六ヶ月の経験から知っているのである。
木曜の夕方に居を移し、注文しておいた家具を組み立て運び込んだ荷物を解いて戦闘態勢を整えた。それに六時間も要したのは計算外であったが、兎に角勉強するには申し分のない空間が出来上がった。ここから巻き返しを図る。形成の逆転を企てる。人間もテクノロジーもこれだけ進化を遂げて来ているのであれば、一度引っ繰り返した水をまた元通りにする術さえあって然るべきである。
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マイスター養成学校が始まり勉強に全身全霊を注ぎ込む積でいまして、それに伴い勝手ではありますが記事投稿の日曜日以外はなかなかnoteの方にも顔を出せなくなります。どうかご了承ください。