ゲンバノミライ(仮) 第3話 休日の西野所長
土曜日の夕方、西野忠夫の携帯電話が鳴った。
久しぶりに土曜休みをとって、現場から家に戻り、家族と街に出かけていた。隣にいる高校卒業を間近に控えた娘の手には、2時間悩んだ末にようやく決めた入学式用フォーマルコートが包まれた紙袋が揺らめいている。穏やかな春の日。買い物を済ませて、これから食事に向かうタイミングだった。
B工区を任せている高崎直人の名前が表示されている。
通常であれば、連絡調整アプリ経由で連絡が入り、休暇中の自分のアカウントから自動的に不在が通知されるだけだ。そもそも、所長である西野の休暇は皆が知っている。連絡が来る、イコール、現場にトラブルが起きたということだ。そうした場面に一度や二度ではなく遭遇してきたが、何度経験しても慣れることはない。一刻を争う。だが、だからこそ、冷静な判断が求められる。
こういう時は、修羅場として後々語り継がれることになる20年前の現場で、大ベテランの先輩から受けたアドバイスをいつも思い出す。
「急ぐからこそ慌てるな。目を閉じて一呼吸置くんだ。事態に飲み込まれる前に、抑えるべきポイントを反芻する。この少しの時間で、気持ちを切り替えるんだ。現場の最前線に立っている自分がリーダーなんだとしっかり自覚して、皆を引っ張っていけ」
いったん目を閉じて、呼吸を整えてから西野は電話を受けた。
高崎からの話は、地域への相談事だった。現場から遙か離れた山間で、先週末から雨が降り続いており、近くの中小河川の水位が増してきていた。現在の掘削地盤は地下水位よりも高い位置にあるが、地下水位が上昇して、想定より早いタイミングで水が出てくる出る可能性がある。その準備として大型土のうを用意するという提案だった。
「もしもあの川が危なくなってきた時には、応急対策用に提供もできるだろう」
「そうなんです。近くに仮設住宅がありますから、大丈夫そうであっても土のうを積んでおけば、気持ち的に安心できると思うんです。お休みのところに電話したくはなかったのですが、役所と地域にそうした準備をしていることだけは先に連絡しておきたくて。よろしいでしょうか?」
「わかった。そこから先の判断は任せるから、しっかり動いてほしい。頼んだよ」
そう言って電話を切った。
高崎は、例の現場で西野の下に付いていた。
工程の遅れが積み重なった中で、最前線を担う中堅として、西野が途中段階から投入された。西野は、少々アクロバティックな手順変更を思いつき、発注者に提案して了解を得た。支店の設計部門に品質と安全の面から問題がないかをチェックしてもらっていたし、協力会社と呼ぶ下請会社の面々も納得して作業に当たってくれていた。組み替えた手順が軌道に乗ってきて遅れていた工程を取り戻せるめどが立ち、余裕を生み出し始めていた。
その矢先に労働災害が起きた。
崩れるとは想像だにしていなかった場所で、2メートルの高さの山留めが倒れ込んできた。近くで重機作業をしていて、崩れた土砂にオペレーターが巻き込まれた。幸いなことに、オペレーターが地盤の変状を察して退避していたため、全身が埋もれて命を失うような事態には至らなかった。
西野が主導して作業変更した部分ではなく、当初計画通りに4メートル弱を掘削する場所だった。追加ボーリング調査で、山留めにとってきわめて重要な根入れ部分の地盤が局所的に弱いことが分かったが、後の祭りだった。
現場では、崩落箇所への対応と並行して、現場全体の地盤条件の再精査を進めた。同様の懸念が想定される場所を洗い出すとともに、現場で一番の若手だった高崎に掘削中の地盤変化を監視させた。その時に一番良いアドバイスをしてくれたのが、事故での怪我から復帰してきてくれた重機オペレーターだった。
「俺たちはただ掘っているんじゃないんだ。掘っていく時の当たりや跳ね返りを感じるんだよ。それが今までと違うということは、地盤が切り替わるっていうことだろ。堅いのか柔らかいのか、水が出てこないか、そもそも重機が動いているこの地盤が大丈夫なのか、ってことになる。
特に気をつけるのは掘るのが浅い仕事だ。あんたら監督は深いとちゃんと気を配る。浅いと気が緩む。そういう場合に限って地盤も緩んでいたりする。あの日、俺は掘り進んでいて、思っていたのと違うって感じて、恐る恐るやってたんだ。だから、危ないって感じた途端に逃げ出したんだよ」
それまでの高崎は、協力会社の面々を少し下に見ているようなところがあった。
発注者、元請け、下請け…。この業界には、言葉自体で力関係を如実に示してしまう呼び方がある。商売上の関係性からやむを得ない部分はあるものの、それが全てと思うような人間は駄目だ。一方的な理不尽さや傲慢さは必ず伝わり、それは不信感を生み出す。本当に困った時に、そういう相手が助けてくれるだろうか。労働人口が余っていた時代に、そうした姿勢のまま貫いた人がいたのは事実だが、担い手が不足する状況下では通用しない。結果的に自分の首を絞めることになる。
あのオペレーターの言葉は、高崎の姿勢を変えた。高崎は真摯に学ぼうと努力し、つぶさに現場を見つめ続け、大きな事故につながりかねなかった予兆を感じてくれ、同じ過ちを繰り返さずに済んだ。あの後も現場運営は苦しく、最後まで激務が続いたが、高崎はなんとか乗り越えて自らを成長させた。今では、西野にとって欠かせない部下であり、だからこそ、今回の被災地の現場に呼び寄せたのだ。
現場では、良いことも苦しいことも、いろいろ降りかかる。出来うる最善が何かを常に探求し続け、ちょとずつ、ほんの少しで良いから、より高いレベルに上げていく努力を続けるほかない。
思いを巡らせている西野を心配そうに見つめる視線があった。妻と娘だ。一度目を閉じて深呼吸してモードを変える。家族に対する姿勢も、間違えてはならない。何の変哲もない休日だが、娘が大人になっていく大事な場面だ。そういう一時一時が、かけがえのない幸せな時間。あの被災地で働いて、被災した人たちの苦しさを間近に見ているからこそ、余計にそう思えた。
電話が鳴った時、正直、すぐに現場に戻らなければいけないだろうと身構えた。
だが、違った。
ほっとした。
娘も妻も、ご機嫌だ。今日は少しくらい多めに飲んでも見逃してくれるだろう。
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