第64話 ジエンドの久保専務
ああ、俺の人生終わった…。
ゆっくりと目を開く。顔の前面にはエアバッグが広がっている。フロントガラスが派手に割れている。
頭が痛い。顔の右側で血が滴り落ちている。どこが切れているのかは分からない。
「大丈夫ですか!」
ドアの外から人の声が聞こえる。
シートベルトを外して、ドアを開けて、外に出て…。
やるべき事はうっすら思い至るのだが、体が動かない。
ああ…、痛い。苦しい…。
力が抜けていく…。
…。
薄暗い部屋の中にいる。
ここはどこだろう。
頭の周りに包帯が巻かれている。
体の節々で激痛が走っている。
頭を動かすことができない。
もう一度、目を閉じる。
心を落ち着かせる。
段々と思い出してきた。
事故ったんだ…。
そうだ。俺の人生、終わったんだ…。
久保拓也は、海沿いにある街の建設会社で専務を務めている。地元の自治体から公共工事を受注して、細々と食いつないできた。久保で3代目になる。
遅くに産まれた一人っ子だった。大学を卒業して、そのまま実家の会社に就職した。
社長である父の善則が病気になって動き回ることが難しくなり、20代半ばで専務になった。
当初は、応札する公共工事の絞り込みなどで善則へ判断を仰ぐことがあったが、徐々にすべてを一任されるようになった。実質的な代表として、資金繰りや受注後の発注者との調整などに駆けずり回っていた。
この街は、人口がどんどん流出していて高齢化率も高い。そうした状況と重なるように、公共事業も縮小傾向が続いていた。数少ない案件に地場の建設会社が群がると、極端な価格競争になるほかない。底値と思ったような応札額が、次の案件ではさらに低価格となる。受注できたとしても、利益など出ないような金額でしか仕事ができない。
底なし沼にずぶずぶと沈んでいくような状況だった。それも無理矢理に引っ張り込まれるのではなく、自ら底なし沼に体を預けていくような不条理な光景が広がっていた。
正直、希望なんてなかった。
そうした状況が、あの災害で一変した。
生まれ育った故郷が大きな被害に遭い、途方に暮れたのは、ほんの短い間だけだった。緊急車両が通行できるようにするための道路啓開、積み上がった災害廃棄物への対応、道路などのインフラの仮復旧、仮設住宅の整備に向けた準備などやらなければいけない仕事が押し寄せてきた。
地元だけでは到底、対応しきれない。行政には全国各地から応援が集まり、復興に向けた工事には全国規模の大手企業が入ってきた。海に近い被災地すべてで共通する構図で、久保の街も同様だった。
この街では、行政と大手企業が中心となって、復興の構想立案から調査・設計、施工、その後の運営までを一手に担うコーポレーティッド・ジョイントベンチャー、いわゆる「CJV」が結成された。
復興工事の元請けであり、久保にとっては新しい発注者というべき存在だ。
CJVの下に地元の建設会社が集められ、最初は規模の大きい会社が1次下請けに選ばれた。久保の会社は、中央エリアの造成工事に参画した。2次下請けの立場だっが、それでも今まで手掛けたことがない金額の工事だった。規模だけではなく、大手ゼネコンでの仕事は、技術面も安全管理や書類作成の面でも、今までの自分たちのやり方と違っていた。
地元の建設会社の仲間達は「こんな細かい所まで気にしていたらやっていられない」とぼやいていたが、久保は逆だった。仕事のやり方を変えるチャンスだと受け止め、愚直に仕事をこなしていった。
そうすると徐々にCJVから認められるようになり、離半島部への高台移転のための造成工事を1次下請けとして任せてもらえるようになった。小さな工区だったが、「やります! 是非、やらせてください!」と即答した。
今回の復興街づくりは、海から少し離れた場所をかさ上げして新たに街の中心を作る工事と、離半島部の海辺にあった集落を高台へと移転する工事がメインとなっていた。離半島部は、最も離れている場所で何十キロもの距離になる。
一つ一つは大した工事ではない。だが、点在する膨大な箇所での工事を着実に進めることには困難も伴う。
CJVが必要としていたのは、受け身ではなく積極的に技術やノウハウを吸収し、愚直に工事を手掛けられる下請けだった。
真面目にやって、求められるスピードについていけば認めてもらえる。
久保はそう信じて、初めての1次下請けとなる現場に臨んだ。
工期はタイトだったが、信頼する後輩である小田文男に現場を任せて、これまでの経験よりも1割多い人員を投入して工事を進めた。あてがわれた工程よりも2日間早く作業を終えた。
CJVの田辺修平が「慌てなくてもいいんです。とにかく事故だけは無いようにしてください。じっくり進めれば、現場は必ず終わります」と言ってくれていたことも大きい。乗り込み前に募っていた緊張がほぐれ、小田にも大らかに接することができた。自分も小田も伸び伸びと仕事ができた。
それは大きな自信になった。
当時、離半島部の高台移転地の整備が本格的に始まるタイミングだった。数十カ所ある中で、現場が進んでいるのはまだ一桁だった。
CJV副所長の本村雅也に呼ばれて、「これから離半島部の造成が増える。久保君のところで、あと数カ所は任せたい。やる気はあるか?」と聞かれた。
即答した。
「もちろんです!」
今まで何度も経験したことがある土工事だったが、災害前に手掛けてきた案件よりも規模が大きかった。そうした現場を、複数で同時に手掛けることになる。受注金額の大きさに正直、心が躍った。
久保は、人員や重機などの手配へと早速準備に入った。
久保のいる沿岸部は、仕事の急増で人手不足に陥っていた。だが、公共投資が沿岸部に集中する一方で、内陸部の建設業界の仕事が枯渇するようないびつな状況が生じていた。
久保は、所属する業界団体を通じて、人が余っている建設会社を探して協力を仰いだ。会いに行った工藤憲一は、二回り以上も年上のベテランの社長だったが、「久保さん、ありがとうございます」と頭を下げられた。同じように重機や資機材もかき集めた。
人員と資機材さえ手配できれば、工事は進められる。
売り上げも利益もすべてが右肩上がりで、じり貧だった数年前が嘘のようだった。請け負う工事が増えて、人員が足りなくなり、工藤の会社からの応援者をつてに、内陸にある別の建設会社から技術者を引き抜いた。
そのことを知った社長の大村伸三が「調子に乗るなよ!」と怒鳴り込んできた。久保は動じなかった。
「誤解しないでください。有能な技術者が給料の高い会社で働くのは、当然じゃないですか。むしろ人助けですよ」
真っ赤な顔をして憤慨している大村を、軽くあしらった。
周りからちやほやされる日々が続いた。いつしか、自分に酔いしれていた。
自分の経営手腕がなせる技と思っていた。
自信満々だった。それが過信だと気づく謙虚さなど無かった。
あの災害前は、工期が半年くらいの簡単な工事ばかりを手掛け、同時進行するのは多くても3件程度だった。なじみの発注者と、顔見知りの協力会社と、のんびり仕事をしてきた。先細りの不安はあった。でも、自分にとっての身の丈に合う仕事でもあった。
10人に満たなかった社員が、数十人になり、動かす工事の規模の桁が上がっていた。気がついたころには、よく知らない社員ばかりになっていた。2次下請けや3次下請けの作業員数が今まで経験したことのない大人数に膨らんだ。
多くの現場が同時並行で進み、目が届かなくなっていた。労務書類の処理だけで膨大な仕事になる。現場の打ち合わせも、ひっきりなしだ。提出すべき資料の作成が間に合わなくなっていた。
あの現場の労務書類を整えて、それからあっちの現場の見積もりを出して、こっちの現場の作業が終わったから出来高をチェックして請求書を出して、次に来る新しい下請けの職長と打ち合わせをして、次の現場のための段取りを進めて…。次から次へと仕事が押し寄せていた。
やらなければいけないことが多すぎた。明らかに自分のキャパシティーを超えていた。やるべきことは分かっている。でも、多すぎて、仕事の量にただただ圧倒されて、頭が働かなくなっていった。
そうした中で声を掛けられていたのが、離半島部で最後となる造成工事だった。CJVの担当者に、以前に仕事がしたことがある田辺がいてくれたことが救いだった。田辺はおっとりとしていて、こちらのペースに合わせてくれる。安心感があった。
だが、CJVのもう一人の担当者である宮崎貴史はタイプが違った。久保と同年代だが、強引にぐいぐいと引っ張っていく印象で、高圧的に感じた。正直、苦手だった。
余裕のない時に限って悪いことが重なる。
順調に進んでいた高台移転地の現場で感染症が広がった。発症した社員が重症化しなかったことは不幸中の幸いだったが、2次と3次の下請けを含めて関係者全員が濃厚接触者になって、現場が止まった。
ほかの現場も手一杯で回せる人材などいなかった。久保は、利益を最大化するためギリギリで差配していた。感染症のことがなければ最後の高台移転への乗り込みに間に合う算段だった。その予定が崩れた。
ただ、困ったら仕事が無い建設会社から人を呼べば良いと高をくくっていた。資金繰りには余裕がある。高く払えば喜んでくるはずだ。
久保は、以前にも頼ったことのある内陸部の建設会社たちに協力を求めた。
だが、応対が以前と違った。工藤に「相談に行きたい」と電話を入れると、「来ないでくれ」と断られた。感染症が理由かと思い、オンラインでの相談を持ちかけたが、やはり断られた。忙しいのかもしれないと考え、「来月から何人か人を出せないですか?」と単刀直入に頼んだ。
「断る」という言葉とともに切られた。
別の会社も同じ対応だった。
つてがあるのは、残り1社。かつて怒鳴り込んできた大村だ。できれば頼りたくないが、背に腹はかえられない。
大村の携帯に掛けた。着信が拒否されていた。
焦りばかりが募ったが、八方ふさがりだった。
夜、眠れなくなった。
「はしごを外された」
ふと出た言葉に、どこまでも人のせいにしてしまう、現在の久保の姿勢が表れていた。そんな相手に手を差し伸べる人間などいない。
田辺から、最後の高台移転の現場乗り込みに向けた打ち合わせを求められていた。会社に来ると言われて、慌てて断った。感染症拡大を理由にオンラインにしてもらった。
その頃には、自分の会社とも距離を置くようになっていた。冷や汗をかきながら電話で応答する姿を社員に見られたくなかった。伝えなければいけないことがあれば、誰もいない場所まで車を飛ばし、そこから電話で指示していた。
田辺とのオンラインによる打ち合わせも、いつもの場所でやるつもりだった。だが、復興街づくりに伴う道路の切り回しでルートが変わってしまい、駐車できるスペースが無くなっていた。
打ち合わせまで時間がない。ぱっと思い浮かんだ場所は、会社近くの公園だけだった。公園へと急ぎ、何とか時間に間に合った。バックミラーの先に会社が見える。すぐ近くにある自分の会社が、ものすごく遠い存在に思えた。
「もうちょっと、もうちょっとだけ待ってもらえないでしょうか。
必ず連絡いたします」
田辺に懇願した。
「分かりました。よろしくお願いします」と応じてくれた。
先送りできて、ほっとした。
だが、解決の当てなどなかった。田辺には翌日に連絡したいと思っていたが、できなかった。
2日、3日…。あっという間に1週間が過ぎた。
待ってくれている田辺の優しさに応えたかった。でも、人がいない。為す術がなかった。
そして、電話がかかってきた。携帯には「CJV」と表示されていた。
ついに田辺から連絡が来たと思った。
携帯の画面を見ながら、出るか出まいか逡巡していた。
でも、もう腹をくくるしかない。
「申し訳ございません。できません」
そう詫びようと意を決して電話に出た。
「CJVの宮崎です。今ちょっと電話いいですか」
田辺ではなく、宮崎だった。
予想外の展開だった。久保は、ごくりとつばを飲み込んだ。唇が震えている。
「奥の離半島部の造成を来月から始めたいんです。以前からお伝えしていたスケジュールとほとんど変わっていません。
大丈夫ですよね?」
宮崎から、まくし立てられるように言い放たれた。
久保は頭が真っ白になった。
「あ、はい。大丈夫…。そう大丈夫です。はい」
久保は、現実からただ逃れたいが故に、嘘を口走ってしまった。明日に打ち合わせすることになったが、めどなど立っていない。
電話を切った後、車内でうなだれていた。
大人しくこぢんまりと仕事をしていれば良かったのに。
何でこんなことになったんだろう…。
どこで間違えたのだろう…。
気がつくと30分以上が過ぎていた。
はっと思い出した。安全パトロールに行かなければいけない!
毎月一度は、自社のすべての現場を回って問題箇所がないか点検することが求められていたが、余裕がなく、今月はまだ半数以上の現場が残っていた。
久保は、慌てて車のエンジンを掛けた。
離半島部の現場へつながる道路は、小さな峠が連なり、海岸線に沿った急カーブも多い。走りやすい道ではないが、何度も通って行き慣れている。
今日のうちに、一つでも多くの現場パトロールを済ませておきたい。
アクセルを踏み込んで、スピードを上げていく。
右側に故郷の海が広がる緩やかなカーブの道だった。
運転に集中しようと思いながらも、さっきの宮崎とのやりとりで頭の中が覆われている。めどが立っていないのに、明日にはCJVに施工体制を報告しなければいけない。
そんなの無理だ…。
心が押しつぶされそうになった。
真っ直ぐ前を見ているが、焦点が定まらない。
頭の中が真っ白になった。
ほんの一瞬だが、ハンドル操作が遅れた。
車体の左側がガードレールに当たった。がたがたと車体が揺れ、金属同士がすれる大きな音がした。
慌てて逆ハンドルを切った。昨夜の雨で濡れていた路面で車がスリップした。ぐるっと車体が回転した。
焦りから、ブレーキを踏むつもりが、間違えてアクセルを踏み込んでしまった。急加速しながら、反対車線の側へと道路を直角に突き抜けていった。
眼下の海岸線が目に入ったところで、大きな衝撃とともに電柱にぶつかって車が止まった。
俺の人生は終わった…。そう思った。
体が思うように言うことをきかない。
でも、最後にやらなければいけないことがある。
ちょっとずつ右腕を動かして、胸ポケットにあるスマートフォンを取り出した。
一番かわいがっている社員の小田を呼び出した。
「はい! 小田です」
元気な返事が聞こえてきた。
「事故った。すまない。
田辺さん…、CJVの田辺さんに申し訳ございませんと、それだけ伝えてほしい。頼む…」
そこまで話したところで、スマートフォンが右手からずれ落ちた。
「えっ!? 事故って、どうしたんですか!
専務、大丈夫ですか? どこにいるんですか!!
返事してください!!」
小田の声が聞こえるが、返事ができない。
意識が遠のいていく…。
そうして気がついたら、病院のベッドにいた。
「専務! 専務! 大丈夫ですか?」
ガラス越しに小田の顔が見えた。
「す…ま…な…い…」と、ゆっくりと口を動かした。
声はほとんど出ていない。
小田は、涙ぐみながら、顔をゆっくりと左右に振っている。
「専務、いいんです。あとは何とかします。ゆっくり休んでください!」
大きな声で呼び掛ける小田のところに、看護師が駆け寄り、「静かにしてください!」と制止した。
小田が大きな体を揺らしながら、平謝りしていた。
その姿を見て、なぜだか顔がほころんだ。
久しぶりに笑った気がした。
そうして、再び眠りについた。
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