魂に煽られる人たち〜心を揺さぶる人生のストーリー12 神の国
暗闇の蒸し暑い車中に、カエルと虫の鳴き声の大合唱が響いてくる。
その夜、晃司は梨花の送迎を志願して、特別養護老人ホーム「神の国」の職員用駐車場にいた。梨花が特養の勤務日を増やしてから、此処で度々梨花を待つ様になっていた。
視野の角で梨花の姿を一瞥した晃司は、トランスポーターのエンジンをかけ、、ヴォーン!。助手席に乗り込む梨花に自らの焦燥を悟られない様に、営業の話題を話し始めた。
「梨花とペアを組んで1ヶ月になるけど、営業所の奴ら掌返しだよ!水谷さんが俺に敬語で話してくるし、長野さんが同行したいって頼みにくるしね。月間新規の件数は、水谷さんを未だ倍以上離している!社内の噂聞いた?このままで行ったら、相原所長と俺たちが本社の集会で表彰されるらしいよ!相原所長は本社に俺たちの事を、所内のエースだって言ってくれてるらしい!、、有難いね。でも、最近、梨花の出勤日が少ないから相原所長が寂しがってるよ。」人里離れた山の斜面に沿って急カーブの山道を降りていく。山間から大羽根の街に差し掛かった頃、晃司は我慢ができなくなり、本心をぶつけてみた。
「俺は、今まで通り梨花とペア組んで営業を続けたい!駄目?」
「、、うん。」梨花は車窓から流れ行く景色を眺めながら、辛うじて相槌を打つのが精一杯だ。視界は、営業以外の事で塞がれている様だ。
「営業って大変だけど、やり甲斐はある。でも、、私たちこのままで良いのかな?」梨花は、車窓の外を眺めたままだ。
「このままで良いって?、、営業のこと?俺たちのこと?」
「、、うん。」梨花は、まだ薬指に嵌めたままの指輪を、無意識に隠しながら、頷いた。
「私ね、そろそろ介護の仕事だけにしたいの。」梨花が漸く、晃司に振り向いて話し出した。眼差しが真っ直ぐに晃司に向いている。
「そ、そう。」梨花の眼差しが受け止められず、逃げる様に目を逸らした。
日曜日の午後、晃司は迎えの時間より、大分早目に「神の国」に向かった。
『梨花の気持を変えられないのが明白ならば、、』
大羽根から山の斜面に沿って急カーブの道を進んでいくほどに、周囲の山々は青々とした緑に覆われ、草木も茂っていく。突如として看板【ようこそ!神の国へ!】が姿を現し、白い鉄筋コンクリート二階建ての建物が見えてきた。
「神の国」は、菰野町北部の山間部に位置する、多床室100床と個室40床 合わせて140床の大規模な介護福祉施設だ。介護保険創設以前、個室と言えば、まだまだ贅沢品である。その当時としては、最先端とも言うべき、個人のプライバシーに配慮した施設だった。
「神の国」に着くと、晃司は初めて来客用駐車場にトランスポーターを止めて、正面入り口から中に入った。玄関ホールに入ると、正面の壁面に、神の国を象徴する大きな十字架が刻まれている。下界とは隔絶された空間に思えた。
施設中に入る為、面会簿に名前を記載していると、後ろから誰かに声をかけられた。
「にいさん!家に連れて帰ってえな!」車椅子を手漕ぎしてやってきた白髪の小柄なお婆さんだ。
「家って何処の事ですか?」
「私の家に連れて帰って欲しいのよ!」お婆さんが指し示す方向に車椅子を押して行くと、廊下の両側に4人部屋が並ぶ一画に辿り着いた。
「ここか、、ありがとうな!」『はぎ』の部屋を指差し、晃司に和やかに会釈したので、『はぎ』の中に入り、空いているベッドに誘導して、部屋を出た。すると、背中の方から怒鳴り声が聞こえた。
「キャー!私のベッドに誰か居る!警察、警察呼んでちょうだい!」咄嗟に逃げる様に、やって来た玄関の方向に走り去った。
「ちょっと!そこの兄さん!ここは何処?」正面ホールの方に戻ると、今度は革製のハンドバックを肘にかけ支度をした黒いスーツ姿のお婆さんに呼び止められた。
「此処は、菰野町にある「神の国」です。」どうしたら良いか訳がわからず、正確に答えてみた。
「人を高齢者と思ってバカにしてんのか!!神の国なんか知らん!私は家に帰らないといけないの!子供も待ってるし!旦那に怒られちゃうから!タクシー呼んでちょうだい!」
「家って、どちらですか?」
「東京!武蔵野に決まってるじゃないの!早くタクシー呼んで!それか、あなた送って行ってよ!助けてよ!」晃司に向かって懇願し始めた。
「此処は三重県菰野町なんですよ!東京に送れって無茶苦茶言わないで下さい!」どうしたら良いか、どう応えたら良いか、全く分からなかった。
辺りを見廻して、廊下の奥で掃除をしていた中年の男性に、手を振って助けを求めた。
「すいません!助けてください!」すると、その男性は内容を聞かなくても分かっている様に、要領良く、笑顔で晃司とお婆さんの間に割って入ってくれた。
「春日さん!私が、責任を持って、後で家まで送りますからね。遅くなっても心配しない様にして下さい!何故なら、ご主人にも事情を連絡しておきましたので。安心してお茶でも飲んでいって下さい!」
「そうなの。あなた悪いわね!じゃあ頼んだわよ!ありがとうね!」不安な表情が、フッと、ツキが落ちたように安堵の表情に変わった。
「すいませんでした!助かりました!」見事な応対の主に、会釈してお礼を言った。
「私は、ここの施設長、青田と申します。」グレーの髪の毛73分け、銀縁のメガネ、白いシャツに、グレーのスラックスの出で立ちは、「信頼」のハンコを押した様だ。
「すいません。質問で恐縮なのですが、さっきのお婆さん達『家に帰る。』って言うのは、一体どう言う事なんでしょうか?」
「あの方々は、認知症と言うご病気です。記憶が想起、保持できないのです。ですから、何回説明してもここがどこかわからないし、そもそも曖昧な過去の記憶しか無い。過去の記憶で今と繋がっているので、此処が何処か分からずに混乱し、不安になっているのです。想像してみて下さい。急に自分が知らない所に居るとなれば、訳がわからず混乱して、不安になって家に帰ろうと思いますよね?」
「はい、、なる程。」未知の世界を開示されている様で、大きく頷きながら話を聞き続けた。
「例えば、さっきの春日さんは、混乱して、不安になってきて、記憶の残っている『東京』に帰りたい。っていう風に発言していただけで、本当に帰りたいと思っていた訳ではありません。そもそも、東京に帰っても、以前に住んで居た家はありませんので、よりショックを受けて、混乱するでしょう。」
「、、何か、切ない話ですね。」人が弱く、脆い者の様に思えてきた。
「人は、本当に、脆くて、弱い。か弱いんです。記憶で繋がっているんです。その記憶が無くなっていく認知症の方々には、先ずは、安心してもらう事です。嘘でも良い。不安から気を逸らしてあげる事、そして、現実に繋げてあげる事が重要です。」
深い洞察力のある対応と話に、晃司は胸が震えた。
「青田施設長!晃司くん!」、、あれ?この2人が話を?全く見当がつかない。
「あ、梨花ちゃん!お仕事お疲れ様!」
「なんで、施設長と何を、話してたの?」
「認知症の事を、施設長に教えていただいてた。そして、、梨花のことも!」
「え?」
半ば、冗談ではなかった。急に、梨花が介護に対して真摯に向き合おうとしている気持ちが分かってきたからだ。
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