寂しさと豊かさと。ひとりだからこそ感じられる”美”〜〈フェリファブ哲学〉さんの動画を見て〜②
YouTubeで「楽に生きる研究家 フェリファブ哲学」さんの動画「感情=情緒!」を見て感じたことを書いています。
その①はコチラ↓
「フェリファブ哲学」さんの動画はコチラ↓
続けて、フェリファブ哲学さんはかく語りき。以下、動画より抜粋。
美しい風景をひとりで見て、孤独を感じ、「この美を分かち合う人がいない」ことで自己否定しながらも、わたしは心の奥のどこかで(フェリファブさん的にいうのなら、エゴではなく「自分の感覚」)それを知っていたような気がする。
かつては一緒に桜を見にいく友人もいたけれど、いつの間にか、わたしはひとりで風景を見るようになり、旅をするようになった。
シェアハウスを利用しはじめたころ、「桜を見にいくのなら、みんなと行ったらいいじゃない」と言われた。現在、カーシェアリングを利用しているため、そのほうがガソリン代を抑えられるからだ。
「ゆっくり写真を撮りたいのなら、現地で別行動してもいいし」と言ってくれた人もいたが、わたしは車で移動中から”その時間を味わいたい“のだ。
なにを贅沢なことを言ってるんだといわれそうだけど、そうしたいのだから仕方ない(誰かと、みんなと桜を見にいくのなら、「みんなとの時間」に集中するし、自動的に集中してしまう。そして、ひとりで味わえなかったことを、心のどこかで恨むのだ。我ながらメンドウクサイ人間だ)
目の前に広がる風景を心ゆくまで眺め、美しさを堪能したい。
自分の胸のうちにわきあがってくる“思い”を……孤独であるということを含めて……つぶさにとらえ、しっかり味わいたい。それを言語化したい。記録したい。そして、誰かに伝えたい。
そのためにはひとりである必要がある。
あるいは、同じ風景を眺めて、そこにある“美しさ“や“世界“を共有しながらも、それぞれが自分が感じている世界に没頭できる関係なら、一緒に眺めることが可能かもしれない。
だが、それでも、自分の中にある“感覚“は、自分ひとりでしか追えないのだ。
「フェリファブ哲学」さんの動画を拝聴して、なぜ、自分がひとりで風景を見たいのか、人を求めながらも一人を選ぶのかが、わかったような気がした。
そして、それを「寂しいもの(=悪いもの)」と捉えなくていい。ひたすら、自分の中にある感覚にだけ集中すればいいということも。
エゴの声にふりまわされず、ひたすら自分の感覚に集中し、「自分との蜜月」を楽しもう。よけいなことを考えず、その時間と空間の豊かさをじっくりと味わっていきたい。
フェリファブ哲学さんのnote↓
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