ベトナム志士義人伝シリーズ⑦ ~梁立巌(ルオン・ラップ・ニャム)~
仏領インドシナ統治政府は、極端な鎖国政策を敷き、巨額の費用を投じて売国奴を買収、無数の密偵を使って蟻をも通さない包囲網を張り巡らしました。その当時のベトナム人が許可証無しで外国へ出る方法はただ一つ、亡命、密航しかありませんでした。
「ひそかに運び出す金銭書信の道は、如何なる細道もことごとくこれを偵知して破壊し、父兄親族は逮捕されて獄中に呻吟し、悪探偵、凶巡査が国境に咆哮睥睨するという有様」 『獄中記』より
そして、「我が党人が、この時亡命しようにも、ただ真裸で走るの外はなかった」と形容するくらいに仏印政府は、「もっぱら我らの糧道を絶ち、後援の道をふさぐことをもって唯一無二の手段とした」といいます。
このような状況下では、当時祖国を出奔した若者が、日本に辿り着いた時に懐中に殆ど所持金がなかったというのも頷けます。このことは、先の記事にも書きましたので宜しければ先にお読みになって下さい。
頭はぼさぼさ、ボロボロの服に身をやつした姿で日本に着いたこれらベトナムの若者は、元々から貧乏で学もなかった訳ではありません。逆に、祖国に於いては殆どが皆、家業もあり他に比べ学業も冴え、名家と謳われる家の出身です。ただ、科挙試験(官職への登竜門試験)に合格するなどしても、節を曲げる他の同窓生達のように異邦人を頭に戴いて仕官するを潔しとしなかった若者たちでした。
国外に出て初めて学問の自由、結社の自由を得た彼らは、活発な活動を始めました。まず、増えて来た在日本べトナム人学生の管理組織として、『ベトナム公憲会」を作ります。「経済、規律、交際、文書の4部を設け、畿外候(=クオン・デ候のこと)を会長に、潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)を総理兼監督と定め、各部には北、中、南部を代表する3名ずつの委員を置き、責任の分野を定めた」といいます。
元々、国許では非常な秀才と謳われた若者ばかりが渡日して来ましたから、振武学校、東京同文書院に入学するや、先に在籍していた中国人留学生らや日本人教師らも驚くような成績を上げた者が少なくなかったと伝えられています。
この「ベトナム人学生は優秀」という記憶伝聞は、ほんの15-20年前位までまだ日本に多く残っていたように思います。けれど、近年は実習生名目で安価な労働力として輸入されたり、日本のあちこちで軽犯罪者の楽園が増える現在、既に昔話のようになりつつあります。この安い労働力と軽犯罪者輸出を問題視せず、改革を実行しようとしない先方政府の不思議もありますが、受け入れを許す側の我が日本政府の愚策もあり、双方以て不思議な仲良し関係かと思わざるを得ません。💦💦
梁立巌君の父親、梁孝廉(ルオン・ヒウ・リエム)氏は、ハノイに在って門人に優れた人物を輩出したことで高名な学者でした。
さっさと主を代えてフランスに仕えていたベトナム人達の間でもその高名は知れ渡っていましたが、招きを受けても当時の官界に姿を見せる事はなかったそうです。
その父にしてこの子あり、と言いましょうか、次男の梁立巌少年も、
「その気性は童児の時から奔放不覊。国が亡ぶと恥無き者はフランス募集の奴隷市場に殺到する、君は怒り憤った。」
と書き遺されたような、幼い頃から道理を知る正義感の強い少年だったようです。人と為るに、賢父の存在と影響の大きさを考えざるを得ません。
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横浜に着き、曾師召公(=曾抜虎(タン・バッ・ホー)のこと )と同居数か月、翌年東京の振武学校に入った。このとき君は17歳。断然頭角を現し、同学の清国留学生は君に一目おいたのである。
卒業したが、日本の参謀本部は日仏条約を理由に、君が連隊に入るのを許さぬ。福島(安正)参謀長に強く請うたが、断られた。
君は憤然、吾が志は陸軍を学ぶにある、連隊に入れぬとあれば、はやこの国に未練なし。日本を棄てて広東に行き、陸軍測量学校に入った。
支那で就学2年、第1次革命が起きた為、学校は閉鎖。君は南京に行き、旅団長陳裕時に志を述べて、軍営に入り騎兵戦術の訓練を受けた。
やがて南京に第2次革命の役起こる。君は上海に行き、同志と連結して袁世凱(えん・せがい)討伐の組織作りに専念したが、時局が急変して挙兵は流れた。
広東へ行き、祖国へ潜入し、それから北京へ行き、軍官学校に入学した。軍列に飛び込めば、かならず左右の兵士に小銃大砲の操術を乞う、敵を生け捕る手立てを計る。心の中は、いつの日か国恩に報いることだけだった。
1913年の冬、君は再び祖国に潜行を企て、香港に立ち寄った。そこでフランスの密偵に嗅ぎ付けられ、捕縛された。河内(ハノイ)に回送され10年の刑を受け、太原(タイグエン)省に流された。
太原の監獄で、君は日がな時がな囚徒を集め、血をすすり涙を祓い、国亡びて種族賤しめらるる惨状を痛談した。囚徒悉く共鳴し、全員破獄の怪劇、太原省のベトナム習兵も銃を回ってこれに応じた。
太原、安沛(イエンバイ)数省官庁が相次ぎ変乱を告ぎ、ハノイは震撼した。しかし、惜しいかな、外に強援なく、内に厚資乏しく、また後につづく民衆の千万人あるべくも無く。敵の重圧の前に、君一人が相手、血戦数か月、ついに弾を受けて、命絶えた。
時に年28歳。
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実弟の毅卿(ギ・カイン)少年は、同じく日本留学生として東京同文書院に留学しましたが、肺を病み、日本政府からの退去命令もあって祖国へ帰国しました。祖国へ帰ると、70歳の父と共に逮捕され流刑。2人とも流刑地で死絶えました。
ベトナム独立運動家の見た日露戦争直後の明治日本・見聞録 その(3)|何祐子|note